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2009年12月

2009年12月11日 (金)
カシニョールの女

カウンセリングルームにカシニョールの絵を飾っています。描かれている女たちはたいてい一人でいて、遠くを見るようなぼうっとした目をしています。この女たちを見ると想像力が掻き立てられます。どの女も関心は愛に向いているように感じてきます。夫や恋人を待っている女、誰かと別れたばかりの女・・・。

女なら誰かを愛しているか、まだ見ぬ誰かとの愛を待っているか、そのどちらかでありたいと私は思います。誰も愛していないし、求めもしない、それではまるで人生の入り口を閉じているかのようです。人生は探求です。女が人生を探求する乗り物は愛。待っているだけだって女である人生を探求して生きているのです。

カシニョールの女たちは、愛を待ちながら日々魅力的な女となっていく、私の目にはそのように映ります。

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倦怠ではない

「恋愛の相手に性のときめきを感じなくなった」ということを相談されることがあります。「だから別れたほうが良いかしら」というような相談。初めからときめかなければ問題ですが、途中からときめかないのは普通のことだと考えます。とはいえカウンセラーだから何か気の利いたことを言うべきかもしれませんが、いつも私には特段の言葉が見つかりません。

ただ、どうなのかなあ。性愛っていうものがなくなることを「倦怠」だと解釈するのが良くないのではないかなあ。こういう解釈が見落としているのは、自分には相手を大切に思う気持ちが深まっているという事実です。(事実がなかったら別の話。) それは当たり前のことではない尊い事実です。そういう事実に気づいたら、「性のときめきは、愛の中に消えた」と解釈してはどうでしょう。本当の愛、相手を途方もなく尊重し大切に思う気持ちが始まるとき、性のときめきは役割を終えてその愛の中に消えてゆく・・・。消えてゆくものを未練がましく追っかける必要なんてないし、生まれたものを大事にしてゆくなんて幸せ。迷わないことです。

こういうことを言うのは年をとったからでなく、そういう本当の愛の「尊さ(稀さ)」を私が知っているからでしょう。性愛の挙句の虐待、無視、浮気、ストーカー、そんな事例に埋もれていると、消えていった性愛の居場所がある人は、とても幸せなんだという感慨を持つのです。

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息を合わせる

会話において「息を合わせる」 ということは、相手を「受容」する上で大切なことです。

体の具合が悪くてパワーが落ちている時、矢継ぎ早に息もつかない話し方をされ、体がもたずに話の内容など頭に入らないという体験をしたことはありませんか? 精神がダウンしている時も同じ。相手が弱っている時は特にそうですが、人と話をするときは相手の呼吸に合わせて話をすることが大事です。そうすれば相手は受容されていると感じ、ゆとりをもって話ができます。弱っている相手を元気付けようと、自分のパワーを全開のままぶつけてしまい、かえって相手を逼迫させてしまわないように注意しましょう。

反対に相手が息せき切っているときは、多くは話したいことがあって焦っているのですが、こちらがゆっくりと呼吸をしていれば、相手は自分の呼吸が早すぎることに気づき、呼吸を整えようとします。子供が泣き止まないとき、母親は子供の目線になるよう膝を折り一緒に息をしますね。子供は徐々に落ち着きますが、大人も同じ。相手が速い呼吸をして落ち着かないときは、ゆっくりと呼吸をして、少し大げさにして見せ、相手が自分の呼吸に合わせるように仕向けます。

しかし相手が怒って呼吸を早めているときは、こちらがあまりに余裕を持った呼吸をしていると、「拒絶」と受け取られかねません。「馬鹿にされている」と解釈する人もいます。怒っている人は、相手はもっと焦るべきだ、緊張すべきだという心理でいるからです。私はこんな時は、まず相手と一緒になって呼吸を早めて話を聞きます。すると相手は私の聞く態度に満足し、徐々に怒りを沈め、呼吸も落ち着いてきます。

「息の合った二人」とか言いますが、うまくいっている人間関係は本当にお互いの呼吸がぴったりしています。常に同じということではなく、双方呼吸の合わせ方が上手なんでしょう。焦りやすい人は、落ち着いた呼吸の人を選ぶと安心感のもてる関係になるかもしれません。落ち着きすぎている人には、呼吸の早めの人が二人の関係をテンポよく楽しいものにするかもしれません。私は時々、犬と並んで寝て、犬の呼吸に合わせ目を見つめ合います。時々わざとずらして呼吸でダンスしてみたり、言葉はなくても息の合った者たちという気分で満たされます。

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2009年12月 4日 (金)
師弟

時々、教育テレビのピアノ番組「スーパーレッスン」を見ます。芸術家の域にある師匠が若い世代のピアニストを弟子にし、時に手取り足取り(今日は芸術家がピアニストの頭を両手で抑えてつけていました)弾き方を教えるのです。師匠たちはそれぞれ魅力に溢れ、ピアノを知らなくても興味が尽きない番組です。

どの師匠も技術の先にあるものを教えようとしているように私には見えますし、聞こえます。今日の師匠は、「音をもぐらせるんだ」 「強く弾くんじゃない爆発するのだ」 など理解至難な言葉を連発し、私はピアニストに同情したくなりました。しかし、師匠が 「そうだ!」 と叫ぶようなやり直しを弟子がなしえたときには、素人の耳にも不思議と前よりぐんと素敵になっているのです。ピアニストの輝くような笑顔。これはもう言葉では言いあらわせない何かが起きているのです。

まさに、ここには師匠と弟子が存在しています。人間が本やテレビから、また一斉講義から学べることとは違う次元のことを「師匠」は教えます。「師弟関係」は世の中で一番尊い関係のように感じます。師匠は全身全霊で自分の知(体験の集積)を弟子の血肉に伝えようとし、「弟子」は自分を師匠に明け渡し、空っぽになり、伝えられるものを知得、体得しようとます。こんな美しい関係は他にないように思われます。

今日も、師匠は何度指摘しても音の出し方を変えられない弟子の隣でしばらく腕をぶんぶん振りまわして叫んでいたのですが、ある瞬間ふっと腕をおろして佇み、「君は、いつもそうして音を出してきたんだ。(だからできないんだ)」とハタと気づいたようにし、憐れみを示しました。とまどいと慈愛というものが感じられる優しい口調でした。すると萎縮していた弟子は、またハタと気づいたかのように背筋を伸ばし、師匠の言う別の弾き方ができたのです。知を授かるために、知を授けてくれる師匠のために、自分を空にする、いつものやり方を捨てる、これが弟子の姿なんだなあと、私は感動しました。

私にも師匠がいました。ゲシュタルト・セラピーを学んだ26歳からの6年間、師匠は心理学博士の荒川旬美先生でした。荒川先生の厳しい指導は徹底したものでした。先生は、「伝えるということは全人格で伝えるということ」 を私に教えました。果たして私は良い弟子であったかというとまったく違って、天邪鬼のまま修了して世に出てしまい、恥ずかしく、申し訳ないことでした。

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