時々、教育テレビのピアノ番組「スーパーレッスン」を見ます。芸術家の域にある師匠が若い世代のピアニストを弟子にし、時に手取り足取り(今日は芸術家がピアニストの頭を両手で抑えてつけていました)弾き方を教えるのです。師匠たちはそれぞれ魅力に溢れ、ピアノを知らなくても興味が尽きない番組です。
どの師匠も技術の先にあるものを教えようとしているように私には見えますし、聞こえます。今日の師匠は、「音をもぐらせるんだ」 「強く弾くんじゃない爆発するのだ」 など理解至難な言葉を連発し、私はピアニストに同情したくなりました。しかし、師匠が 「そうだ!」 と叫ぶようなやり直しを弟子がなしえたときには、素人の耳にも不思議と前よりぐんと素敵になっているのです。ピアニストの輝くような笑顔。これはもう言葉では言いあらわせない何かが起きているのです。
まさに、ここには師匠と弟子が存在しています。人間が本やテレビから、また一斉講義から学べることとは違う次元のことを「師匠」は教えます。「師弟関係」は世の中で一番尊い関係のように感じます。師匠は全身全霊で自分の知(体験の集積)を弟子の血肉に伝えようとし、「弟子」は自分を師匠に明け渡し、空っぽになり、伝えられるものを知得、体得しようとます。こんな美しい関係は他にないように思われます。
今日も、師匠は何度指摘しても音の出し方を変えられない弟子の隣でしばらく腕をぶんぶん振りまわして叫んでいたのですが、ある瞬間ふっと腕をおろして佇み、「君は、いつもそうして音を出してきたんだ。(だからできないんだ)」とハタと気づいたようにし、憐れみを示しました。とまどいと慈愛というものが感じられる優しい口調でした。すると萎縮していた弟子は、またハタと気づいたかのように背筋を伸ばし、師匠の言う別の弾き方ができたのです。知を授かるために、知を授けてくれる師匠のために、自分を空にする、いつものやり方を捨てる、これが弟子の姿なんだなあと、私は感動しました。
私にも師匠がいました。ゲシュタルト・セラピーを学んだ26歳からの6年間、師匠は心理学博士の荒川旬美先生でした。荒川先生の厳しい指導は徹底したものでした。先生は、「伝えるということは全人格で伝えるということ」 を私に教えました。果たして私は良い弟子であったかというとまったく違って、天邪鬼のまま修了して世に出てしまい、恥ずかしく、申し訳ないことでした。