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2008年5月

2008年5月21日 (水)
同窓会

先日、30年ぶりに高校の同窓会があり20分だけ顔を出しました。長くいたかったのですが東京に帰る用事ができてしまいました。(幹事さん、ごめんなさい。)ストーカー事案を手がけているとプライベートな時間は本当にとりにくく、皆さんをがっかりさせることばかりです。

それにしても、人間って思い出せるものですねえ・・。30年間一度も思い出さなかった人を見て、私はすぐに記憶がよみがえりました。きれいにお化粧されたお顔を見たとたんに当時のセーラー服姿が髣髴としました。心は簡単に過去に戻れるということを私は知りました。思えばこの30年間に私はたくさんの人と出会って生きてきました。良好な関係をもてた人たちと、まったくそうでない関係であった人たち・・・記憶はないまぜになっています。普段は忘れていても、心の奥底では出会った人たちとのたくさんの記憶が心情とともに保存されているのですねえ。

心理療法は感情の処理だと言いましたが、思い出の処理(編集)とも言えそうです。人は過去と現在に起きた「出来事」から「認識」を通して現在の「感情」を持てているわけですから。認識が変われば感情も変わります。たとえば自分のことを嫌いだと思っているのではないかと思われる人間はどうにも好きになれないものですが、あるとき何かの具合でその人間が自分を好きなのだとわかったとたん、その人を好きになるなんてことはありますね。新たな情報により認識が変化し感情を変えたのです。苦しい感情をお気に入りの感情に変えること、つまり自分が楽に生きられる新たな認識を得ること、作ることのお手伝いを心理療法では行います。

心理療法の一つの例ですが、過去自分をいじめた相手がいて、その人をどうしても許せないと思い続けて生きてきた人がいました。いじめた人は離れてしまっていて今さら問題を蒸し返せない。自分の心に恨みだけが残ってしまっている。言いたいことを言いたかったと悔やんでも過去に戻ることはもうできません。こんなケースでは、イメージ療法をします。過去に気持ちを戻してカウンセリングルームの中で相手と対話をするのです。そして過去言えなかった本当の気持ちをぶつけます。イメージの中の作業ですが、これで心を完了できる人もたくさんいらっしゃいます。親、兄弟、教師、友達、いろんな相手との過去の確執から逃げられないで苦しんでいる人はたくさんいます。時に、自分の恋人の過去のお相手に対して、会ったこともないのに嫉妬して苦しんでいる人もいます。

前回、言いましたが、自分が持った感情のすべての責任は自分にあるということです。たとえ、いじめられたという出来事があったしても、いじめた相手を憎む感情、あるいは自分はだめな人間だと卑屈に思う感情を持ったのでしたら、その感情は自分固有の認識・・この場合、 いじめる人間は本質的に悪い人間だ、いじめられるものは弱いとの認識・・のフィルターを通して持った自分固有の感情なのです。彼氏の過去の恋人への嫉妬などは誰も解決してくれません。時々、「過去に私以外の女と付き合ったあなたが悪い。せめて、今まで交際した女性の中で私が一番好って言ってくれなければ!」と相手に真剣に怒りをぶつけて嫉妬を解消しようとする人もいますね。(余談ですが、著者辻仁成の『人は思い出のみに嫉妬する』は素敵な小説でした。)

しかし、今回私は同窓会に出たことで実際に過去に戻れました。そして図らずも、望んでいなかったのに、ひとつ心を完了できました! これは凄いことでした。高校時代、教室の席が前後していてよく会話していた男子がいましたが、私は彼を少し好きだったのです。今回、その男性とちょっと話ができて当時の気持ちをお互いに少し分かり合ったような気がしたのです。彼はそんなことを忘れているだろうと思っていたのに、楽しかった会話を彼も大切な楽しい思い出にしていたことを知ったのです。うれしかった。彼が別の女子と付き合い始めた時、私の心は小さな痛みと寂しさを覚えたのですが、30年もたった今でも、その痛みはそのまま保存されていて、そのまま感じられるという素晴らしいことに気づいたのですから。若返った気がしました。おばさんねえ。それにしても、いったい思い出したくもないそれ以後の大きな出来事たち、それらによって私が持ってしまった恐ろしいほどの分量の感情とはどんなに大変なものだろう・・・蓋を開けたら凄いんだろうなあ・・・。

前回、お約束していた詩ですが、そこには過去の両親との出来事から彼女が持ってしまった悲しい感情がつづられています。彼女は悲しさを忘れたくてたくさんの異性にしがみつきましたが、いつも満足できませんでした。過去の親との心の葛藤に、イメージにおいて取り組むことが彼女の回復の始まりでした。次回、詩をご紹介します。

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2008年5月 3日 (土)
介入するということ

一週間に一度は更新しようと思っているのに、先週はストーカー案件や離婚相談がまとまって入いってしまったのでブログがお留守になりました。私はストーカー案件については同時に5件までしかお受けしないことにしています。それ以上になると何かあったときにも緊急に対応できないですし、私の気力と知力も分散されすぎてしまうからです。相談者には申し訳ないとは思いつつ、警察で注意や警告をしてくれればなんとか加害者も矛を収めてくれそうな、方向転換できそうな、という場合はお断りをします。

私がカウンセラーとしてストーカー案件に介入する、そして解決するとはどういうことか・・・今日は、それを話したいと思いました。

本当の解決と介入とは、「加害者」と呼ばれる人が加害行為 と言われる ( 受ける側には苦痛と恐怖以外の何者でもない ) 行為をせずに日々を過ごせる心理状態になること、それまで関わり続けること だと私なりに見定めています。処罰や民事訴訟の勝利は、あくまでも「見なしの解決」と考えています。処罰してもらうことや民事で接近禁止の仮処分をもらうことは、それまで深く付き合っていた相手を手術のように切断し排除する手法ですが、それで本当の安心が得られるとは感じないのです。法的解決を求める人に対して警察のミッションは大変ありがたいものですし、私も危険回避の拠り所として頼りにしております。体を張ってくださる警察官の方には常に尊敬の気持ちを抱いています。でも私はカウンセラーですので、当事者たちの心の安全を確信しない限りは事案から離れることはできません。たとえ加害者が逮捕され刑務所に入ってもカウンセリングは続くものと考えています。刑務所へ家族とともに面会に出かけ話をしたり、手紙のやり取りをするのもそのひとつです。出所後にカウンセリングに通ってもらうこともあります。

私がなぜストーカー案件に介入するのか、それは私自身が過去ストーカーの被害者であり、そのまた昔には加害者でもあったという体験を得たことが動機の全てです。ストーカー事案の本質とは、人間が自分の心の弱さを “どうしようもなく” 克服できないという悲劇にある と理解をしたので介入することにしました。加害者は本当は被害者よりも傷ついている、そのほうが多いと言ってもよいかもかもしれません。傷ついた心をもっている人がいる以上、それが「加害者」であろうとも救われるべきであると私は信じているのです。ただし、それは自らの犯した罪を理解しなくてもよいとか責任を取らなくてもよいとかということではありません 。( 「常識のものさし」について以前少し触れました。きっとこのブログでいつか介入の実例をご紹介することになるでしょうから触れるつもりです。)

「加害者」にとって一番の望みは 処罰されないこと などではありません。彼らの心は果てしなく彷徨っていて、すでに社会の枠組みなど関心がなくなってさえいるほどに余裕を失っています。こういう「加害者」は、自分の心が救われたと感じられた時に初めて処罰を受ける意味を理解し納得すると私は推測していますし、実際もそうでした。「加害者」は、自らの心が救われるその時まで、まるで煮え湯を飲むような日々を送っていることを私は想像できます。

昔、私がストーカーであったとき、朝を迎えるごとに太陽がギラギラといやらしいほど眩しく、「今日一日をどうやり過ごせばよいのか !」 と、逃れようもない息苦しさ、絶望感の叫びが体中にこだましました。ひと呼吸ひと呼吸は煮え湯を飲むような痛みを伴い、布団の中で身もだえするばかりでした。この苦しみから解放されるには彼が戻ってくれること、せめて私の苦しみを理解してくれることだと、そのようにしか考えられませんでした。しかし彼にはそんな余裕はありません。新しい彼女と、私からの加害行為からどう身を守ろうかと頭を寄せ合いながら悩んでいたのでした・・・。 そんな私が救われたのは偶然の神の差配でしたが、私はそのときの自分を思い出しながら「加害者」ケアをしています。

ストーカーであることをやめられた私は、後にカウンセリング、特にセラピーの勉強を始めました。そのとき師匠から教わりました。「どんな感情を持ってもそれはあなたの自由だ。恨んでも憎んでもよい。しかし、その感情は相手という誰かに持たされたのものではなく 、自分自身が持ったものだと心に決めること。そして、自分の感情は完全に自分で処理をすることです」と。 以来、セラピーとは自分の感情の処理の仕方を学ぶことだと理解してきました。師匠の言葉を聴きながら私は過去を振り返っていました。 人間が本当に救われたときには真実そのように感じられる と了解できたのでした。

従来言われてきた一般的な犯罪の動機とは、金、権力、情欲を満たさんがためのもの、いわば社会的・経済的敗者による恨みと復讐であり、非合法的な手段よる上昇への願望です。ストーカーと呼ばれる人の心の中にも、愛する人に「裏切られ」「捨てられた」という敗者の恨みや怒りがあります。しかし私がお会いした多くのストーカーと呼ばれる人たちは、おしなべて幼い頃から自信の弱さを必死で隠し、努力の成果である鎧を身につけがんばって生きてきた、まじめで一倍寂しさに弱いという人たちでした。

愛する人に出会えて、ようやくひょっとしたら自分に鎧は要らない、自分が本当に求めてきたものは社会的成功や賞賛などではないのかもしれないと気づき始めた頃 ( 残念ながらその気づきは遅すぎた、いつものやり口である支配と追いすがりは相手を苦しめてしまった ) に捨てられた悲劇。 あるいは例えば、不倫相手からの ( いい加減な ) 結婚の約束を信じていたのに、ある日突然「それは単なる非日常の夢だったんだよ」と別離を告げられてしまったケース。「加害者」は、怒りと苦悩のうちに相手に救いを求め続けて、それが攻撃となってしまっていたとしても私には彼女を責めたりできません。 「でも、それは加害行為に当たるんだよ」 と伝えることから私の介入は始まります。

・・・以下のコメントをしてくださった苦悩の中にある方に、私は今日お手紙を書いているつもりでした。貴重なコメントをありがとうございました。

次回は、「加害者」になってしまっていた女性が私に送ってくれた詩を皆様にご紹介いたします。彼女は自分の詩をいつでも自分と同じように悩める人たちに届けてほしいと言って書いてくれました。もう10年も前のことです。今はその女性にはかわいらしい女の子がいます。

※いただいたコメントの抜粋

「被害者が加害者であるケース(それは法律で裁けなくとも)がございます。
加害者と不本意にも呼ばれることに陥ったのは必ずしも加害者の「病体」だけが原因ではございません。

幸せに生きて欲しいですか?かつて愛した誰かを我が身だけを案じて(身勝手)訴訟する被害者も実在いたします。

訴訟前に被害者がどんな行動を起こしましたか?」

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