2008年7月 5日 (土)
孤独と孤立1

喧嘩は仲良い証拠というように、相手に変化してほしいと願っている間はまだ本当の孤独ではありません。問題意識とは現状を変化させたいという欲求です。問題を抱えて皆さん私のところにいらっしゃるのですが、相手を変化させようとしてがんばる間は、まだ相手と一緒に問題に取り掛かっているわけです。ところが、相手に対する自分の影響力のなさを認め、あきらめたとき、突如本当の孤独に陥ります。自分が変化しないと問題を乗り越えられないと気づく瞬間でもあります。

たとえば、夫が浮気をしていることを知ったとします。孤独感を味わいます。浮気を白状させる、浮気を止めさせる、という問題が浮上します。これに格闘している間は、相談にこられている妻も元気があります。怒りと悲しみに身もだえしつつも、被害者としての自分は生き生きと問題意識を掲げています。「どうしたらよいでしょう・・・」と。

夫が素直に白状して浮気を止めてくれれば彼女の問題は解決です。こうなることを期待して皆さんいらっしゃいます。ところが、夫は白状したはいいけれど「俺はあの女性と別れない。申し訳ないが君とはさようならだ。」と言われた日には、振り上げたこぶしは落としどころがなくなります。喧嘩の相手は一瞬にして消えたのです。この突然の孤独感は怖い。浮気を知った日の孤独の恐怖よりもさらに怖い。なぜなら孤立という状況を伴うからです。

夫にとってもうどうでも良い相手なのだと自分を感じるときほど、足場の無さの恐怖を味わうときはありません。隠したり、言い訳したり、逆切れしたりしていたころの夫が懐かしい。そんな時、さっと許してしまえばよかったのかしら、それともようやく白状して許しをこ請うた夫を許さなかった自分、無理難題を毎日言い続け、(これは本当にバラエティに富みます・・・たとえば毎日職場から愛しているメールを出させる、その日行く飲み屋の場所と連絡先を教えさせる、美容に関する投資をさせるなどなど)、結局は嫌われてしまったのかしら・・・などと後悔を始めます。こういうパターンは沢山あります。

孤独になったらせめて孤立しないように意図しましょう。まずは孤独を受け入れることです。一人で感情の処理をすることです。そして、夫とは・・・どうすればよいの?

続き

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2008年6月22日 (日)
感情の処理 その二

感情の処理をする際に、相手がしてくれなければ困ることがあります。たとえば貸したものを約束どおりに返してくれなかったり、傷つけたりされたら基本的に感情は悪化します。イライラしたり、心配したり、気になります。

そんなときは一人で悶々としないで、「返してください」とお願いしましょう。言い出しにくいことは生きていれば沢山ありますが、「お金を返してほしい」と言うことは、なかなか言いにくいもののひとつです。だからそれができるだけでも、自分を尊敬できます。

それでも返してくれないときは、①あきらめる。②請求だけはし続ける。③金額によっては法的対処を講じる。のどれかを選択しないとなりません。

①を選択した人は、あきらめるための自分への説得が軍配を上げているといえます。感情の処理を知らずのうちにしてしまっているのです。「あんな人に貸した私が馬鹿だった。」とか、「後世の功徳になるわ」とか、「もう二度と借りにはこないだろう」とか、気が楽になるためなら、どんなストーリーでも人は考えるものです。人間ってよくできています。この能力は大切にしないと。・・・あらかじめ処理している人がいますね。「返ってこなくても仕方ないなあ・・」と思って貸す人です。

③の選択も、結局は自分の感情処理のために行なっているといえます。「解決とみなす」感情処理は、昔なら長老の決定を仰ぐということもあったでしょうが、現在では法的決着が一番良いです ( もっとも濫訴はいけません )。 たとえば全額が戻ってこなくても、できることまではやったという解決の安心感が得られます。

問題となるのは②です。請求し続けるということは、相手が債務を無視し続けることですから、さらに感情が悪化します。ですのでさっさと③に移行するのが正しいのです。そのまま請求しつづけていると、請求の仕方しだいでは、たとえば暴言を吐いたりお家に押し入ったりしてしまうと、相手を怖がらせて、こちらが違法行為になってしまうこともあります。やるなら感情を「棚上げ」にして、冷静に行なわないといけません。

「許す」は「あきらめる」分野の問題です。

肉体的、精神的被害にあえば、加害者に当然謝罪と弁償を要求できます。謝ってほしい、弁償してほしいという感情は自然のものです。たとえば婚約者が、ほかの女性と交際を始めたために不履行の被害にあったと想像してみてください。「もう一度戻ってほしい」とか、「“心から”謝ってほしい」とか、「心のケアを恋人ができるまでしろ」とか・・・そんな要求をしたくなるのも理解はできます。しかし、それは無意味ですし、間違っています。どんなに苦しくても、自分の感情は自分で処理すると覚悟し、決めることです。既に相手はいなくなっており、自分は孤独だからです。自分を助けられるのは自分だけだからです。冷静に孤独に、謝罪と弁償を要求できる権利を行使するのみです。

これは大変難しいことです。私は恋人に振られたとき、まっしぐらに走って鏡を見ました。そして、「あなた、この状況に耐えられる?」と聞きました。鏡の中の私は「いいえ。無理」と答えました。そして私はストーカーになったのです。そのとき、誰かが「それでも自分で自分の感情処理をすると決めなさい。孤独に耐えるのだよ。私が支えるから。」と言ってくれたら、違っていたかもしれません。私は、自分には孤独に耐える力がないとあきらめたのです。③は到底無理、①もできない、だから、ありもしない債権なのに請求し続けた②のです。②も③もできないし、しないほうがましな場合は、①に取り組むしかないのです。①をできない自分をできる自分に変容させるしか生きる道はないのです。私は、ずっと後でしたが、幸運にもそのことに気づいて、救われました。

論外ですが、時々、感情処理のためにために、復讐屋に相手を困らせる依頼をしたり、自分で匿名の小さい復讐をしたり ( たとえば誹謗中傷のメールを送る、うわさする、ネットに書き込みをする、自宅に汚いものを送りつける、意地悪な態度を取る ) などして憂さを晴らす人がいますが、不埒なことです。これは完全にハラスメントです。

自分で感情処理をすると決めることは本当に難しいことですが・・・することです。そして次にどのように感情処理したら良いのかを考えます。やはり①か③の選択、あきらめるか、慰謝料請求の訴訟を起こすかの選択をします。(慰謝料請求の構成要件は、故意、過失、違法性、実損なので、訴訟するなら準備が必要。) ②の請求をし続けても、再度結婚するということには実際問題としてなりませんから、しないほうが良いです。感情はさらに悪化します。 

私はカウンセリングをしていて感じてきたことがあります。「自分自身が」あきらめないと、「人を」許せないということです。「あきらめた」と言いつつ相手を許さない人が沢山います。「私はせっかくあきらめたのだもの、あなたはもっと私に感謝しろ。」とか・・・。これは常識的に状況をあきらめているだけで、「本当の事」を自分自身があきらめているのではありません。

「本当のこと」をあきらめられないから相手を許せないのです。この結婚はもう無理だと観念しているのに、「本当のこと」、この結婚をあきらめられない何かが自分の心にはある、何が自分の心にあるのだろう?・・・あきらめられないのは社会的地位かな、経済的安定かな、彼の笑顔かな、彼には私しかいないという情かな、捨てられるということが怖いのかな、とにかく怒りかな、・・・これら未完了の感情、思いをあきらかにし、潔く捨てる、がセラピーの分野での感情の処理になってゆきます。

たいていの人は、ひど過ぎる被害でなければ常識的にあきらめます。時がたてば忘れるだろうと思っていますし、確かに記憶は薄れてゆきます。でも、なくなるわけではありません。何かをあきらめなくてはならないとき、それをチャンスと捉えてセラピーで自分を明らかにしてゆくことは、贅沢なことだと言えます。そして、それをする人は強いとも言えます。

セラピーで行なう感情処理は沢山あります。その程度、深さはそれぞれに異なります。

EX1・・・入試に落ちた。その大学やその会社に入るのはあきらめたのに、自分にその大学や会社にふさわしい学力や力がないということは受け入れられない、本当は自分はその大学、会社、階層にふさわしいはずだという思い、自己評価を、あきらめられない。こんな場合、人は大学や会社を、ひいては社会を恨みます。被害者意識が生まれます。再チャレンジするなら、一旦は自分の力不足を明らかにし、あるがままの自分を受け入れることが必要です。こんなはずはない、と思っていると成長はできません。

EX2・・・子がなかなか自立しない。思うような大人にならない。あの子のおかげで私たちは心配ばかりさせられている。苦しめられている。もっと自立した青年になってほしい・・・と嘆く親たち。そう言いつつも、子が自立するために必要な、「苦労する、失敗するチャンス」を過保護にも未然に防いでいたりします。子が苦労し、失敗する姿を見たくないからです。こういう親は、子に喜ばされる自分の姿や人生というものをあきらめられないのでは? 「あんなにかわいがり、一生懸命に育てたのですから。」との思い。

子のために一生苦労しても良いわと観念し、子に喜ばされるという人生を親があきらめたら、多くの子は自由になりそうです。子は、自分らしい希望を、素直に感じても望んでもよいとわかれば (許してもらえれば)、自然と親を喜ばせたいと思うものだと私は感じてきました。苦労したり、失敗したりしながらも、です。

EX3・・・大切にしていた犬を、ただ慰みのために故意に殺された。犬が死んだことを受け入れられない。あきらめられない。殺した相手も許さない。望みは復讐だけ。人は愛するものを傷つけられたとき、復讐することで感情処理をしたくなります。でも刀狩以降、われわれは復讐という手段を使えません。復讐の代わりの手段を探さないとなりません。それは法律に則り、しかと相手を告訴することです。

犬を殺された場合、刑法では器物損壊罪に過ぎないのですが、民事で戦って精神的慰謝料を取ることはできます。これほどまでの被害であれば、少なくとも「(法律による)みなしの解決」をしなければ、その先の本当の感情処理などまずありえません。(宗教家なら別かもしれませんが。)  「二度と同じ被害が起きないようにと願います。」とのフレーズだけでは、本心はまったく間尺にあわないはずです。

毅然として処罰と弁償を求める③ (繰り返しますが、これも自分の感情に自分で責任を取る方法です) → そして本当の感情処理をし、二度と戻ってはこないことを受け入れる、あきらめる① の順です。私なら、セラピーでは犬に訴訟の報告をするということをします。そして、思い切り泣いて犬と決別します。「一生一緒にいたかった・・・」 その気持ちにさよならをします。

自分のせいでなく、愛する人や犬を失ってしまった場合は、その喪失という状況さえ受け入れられるものではありません。さよならができたときに、初めて喪失は受け入れられます。

セラピーの分野での感情の処理は、「みなし」でもなければ「状況をあきらめる」ことでもありません。「それまでの自分を乗り越える、新たな境地の発見」 「正しい自己評価と自分にふさわしい希望の発見」 「自分は本当は何を望んだら良いのか・・の発見」です。

でもブログでは、セラピー以前に自分でもできる小さな感情の処理方法を、いくつかご紹介しないと。今回は先に行過ぎてしまいました。

続く。

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2008年6月19日 (木)
感情の処理 その一

最近は、コメントが少し増えてきました。反応をいただけるということは嬉しいものですねえ。    以下に紹介するコメントを読んで、感情の処理についてお話をしようと思いました。

自分自身の持ち物である感情、それを持ったのは他の誰かのせいではなく自分の責任だとする立場をとることが、成熟した大人であることだと私は教わりました。

「 師匠の言葉、

>『どんな感情を持ってもそれはあなたの自由だ。
>恨んでも憎んでもよい。しかし、その感情は相手という
>誰かに持たされたのものではなく 、自分自身が持った
>ものだと心に決めること。そして、自分の感情は完全に
>自分で処理をすることです』

とても胸にしみました。。

人は苦しい時、つらいとき、そんな感情を自分が持っている
とは思いたくなくて、誰かのせい、何かのせいにしたり
しているのかもしれませんね。
でも、そう感じているのは、自分自身なんですよね。 」

・・・と、コメントしてくださった方、私と同じ道を歩まれようとしていらっしゃるのですね。

感情処理にはいろいろな方法があります。たとえば、以下のようなコメント・・・

「 心理療法で本当に過去のこだわりが消えると思いません!たとえば過去の出来事において憎む相手を直接制覇する事が出来ないならば、別の事で達成感を持ち、自分自身を生かして相手を制圧した以上の満足感を得なければならないと思います! 」

・・・この方のように、心のこだわりを解消するため何かを達成し、満足感を得るという方法もあります。大切なことは、憎む相手に対して自分の憎しみを解消させるため 「こんなにお前を憎んで俺は苦しい。俺の感情に責任を取れ。」と迫るのではなく、憎しみという感情を抱いた責任は自分にあり、この大切な感情を処理するのは、自分であると覚悟し、やってみることです。

では、他にはどんな方法があるかしら?

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2008年6月12日 (木)
人格障害

人格障害という言葉をよく耳にします。考えてみると恐ろしい言葉です。「病気」は治るけど、「障害」はもう直らないという意味ですから。すると、人格障害の人の人格は、たとえ一部にしても壊れていて、もう治りはしないということになります。ぞっとする言葉です。

人格障害は、一般的には、狭義の精神病(統合失調症など)と、広義の精神病(うつなどの神経症)の間に位置する病気といわれており、まさにハザマを意味するボーダーラインを含む思考の偏り、性格のゆがみをさします。

心理特長により、自己愛が強い自己愛性人格障害、見捨てられる恐怖の強いボーダーライン、虚言を含む演技のうまい演技性人格障害などが代表的ですが、そのほかにも妄想性人格障害、回避性人格障害、殺人などにいたる反社会性人格障害などに分かれます。ですので、いわゆる精神の病気、障害という観点で捉えるだけでなく、心理の分野の「病態」としても捉えることができると思います。最近では人格障害は投薬治療も少しずつ可能となってきているので、私もストーカー行為や暴力依存に走ってしまうクライアントを、精神科医のもとへとつなげたという例がいくつもあります。

私のクライアントのある女性は、カウンセリングを受けながら私に紹介されて精神科医に通うことになった一人です。彼女は忙しい経営者の父と、専業主婦の間の一人娘でしたが、叱られたという体験がないまま育てられた幼さの残る、甘えが全身に漂うような20歳そこそこの女性でした。初めて交際した学生時代の恋人に、ある日突然去られてストーカー行為を始めました。

その行為の激しさは、たとえば彼の会社の留守番電話機能が使用できなくなるまで、留守電に彼のことを罵り、吹き込み続けるものであり、また、駅で待ち伏せして彼の首をつかんで「やり逃げ男」と叫ぶものであり、彼がまだ話し合いに応じている間は、一緒に乗っている電車の座席に座る若い女性に突然つかつかと近づき、『私の彼を見るんじゃねえよ』と大きな声で凄むというものであり・・・そのようなことが1年以上も続いていたのです。被害者の彼は自宅に帰ることができずに、隠れるようにして暮らしていました。

初めて私が彼女に会ったとき、彼女は言いました。「私は交際中、彼に約束させました。『ほかの女を見ない、話さない、かかわらない』ということを。だから、一生監視します。」と。「それをしないというなら、あいつを殺したい。死体でもいいから独占したい。」と。

彼女は私が関わった中でも激しい方のストーカーでした。私のカウンセリングを受け始めてからも、誰かと会話していて腹が立てば平気で公衆電話ボックスを蹴飛ばしガラスを壊しました。警察官が来ても、既に精神科医にかかっているのを盾にして、「私は精神病。私を捕まえたって無駄よ」と嘯くのです。

彼女の親は、たいそう心配そうな態度で時々私と会いました。でも、いつも最後は「娘は困ったものだが、もともとは娘を見捨てた男が悪い。とにかく、娘のことは親ではどうにもなりません。小早川さんに全部お願いしたいから宜しく。」なとど、やさしいというより、本心は娘の問題から逃げたいという感じが見受けられました。彼女は、そういう態度の親をすがるような目で見ながら、両親が帰ってしまうと言いました。「両親は私のことをまったくわかってくれはしない。お母さんは昔からお父さんといつも喧嘩していて、私はとても不安。もう、ずっとお母さんのことばかり心配。」と言いました。

彼女はガリガリにやせていたのに、まだダイエットし、お風呂の中では手足を剃刀で薄く削ぐなどの嗜癖もありました。私がセラピーをしたとき、彼女のイメージはこうでした。

「砂漠にお母さんと歩いている。私は小さくてお母さんの手を握っている。でも、お母さんは私を見てくれない。お母さんが離れてしまうかもしれないと、私は必死で手を握っている。」

閉じた目から涙が出ていました。

彼女は、いずれ彼をあきらめることになりました。そして、その後、数人の同様な被害者とともに私のところに訪れました。ある時は警察署から「男女が車中でけんかしていたので保護したが、ナビゲーションを女性が壊していました。被害者は被害届を出すのが怖いというのです。加害者の彼女がカウンセラーの小早川さんのところにこれから行って話しをつけたいと言っていっていますが・・・。」と電話がかかり、ある時はデパートの店員からの電話で「店で激しく言い争っていますが・・・・。」と連絡がくる。 彼女との付き合いは彼女が落ち着きをみせるまで7年をかけるものとなりました。

彼女は親からも、警察からも、相手からも、人格障害と言われました。医師は、入院をさせるなどもして彼女の治療に尽力してくれました。でも、たとえ精神が治療されても、心が不安であればまた元に戻ります。心だけの問題ではないにしても、やはり心のケアは必要でした。彼女の心の叫びをセラピーで聞いたときに、私は彼女が救われないままで取り残されていることを知りました。

私は数年をかけて、そして今も、彼女と付き合っています。彼女はしかし、今ではお母さんなのです !!

彼女の書いた詩をここに、ご紹介します。彼女は、「私と同じように辛い人がいたら、この詩を読んであげてください。一人だけじゃないよって言いたい。」と。

“  わたしは誰のために生きているの?

私は何のために生きているの?

私は透明な存在である。

毎日外出するが、口を聞くのはお店の店員さんか、心無い黒服のキャッチスカウトをかわすときだけだ。

私は一体誰のためにお化粧しているの?

誰のために週に一回美容室にセットに行くの?

誰が見てくれるの?

誰のためにおしゃれをするの?

親にも邪魔にされ、私を必要としてくれる人もいなければ、その服かわいいねってほめてくれる人もいない。

私は透明人間である。

私が手首を切っても、首をつっても、きっとこの世で驚く人も、悲しむ人もいない。

私は何のために生まれてきたの?

ねぇ、誰か教えて。

居場所がわからない。

見つからない。

未来には期待できずに私が思ったこと、感じたことを分かち合える人もいない。

私なんて本当は生きている資格さえないんだ。

神様、私なんかが生まれてしまってごめんね。

ボーダーライン、人格障害、人は言うけれど、私だってみんなと同じようにバリバリ働きたい。

楽しく馬鹿話して笑いたい。

大好きな人と手をつないで歩きたい。

親ともっと話したい。

私はどうして生まれてきたのかなあ?

誰かの為になってるのかなぁ?

どうして世の中の人に認めてもらえないのかなぁ?

辛い、苦しい、悲しい。

何度も手首を切ろうとするけれど、勇気がもてない。 ”

彼女のような人格障害といわれる加害者はたくさんいます。でも、医療からは「警察マターでしょ」と言われ、警察からは「病院マターだね」と言われがちです。取り残されてケアも処罰もされてないままの加害者たち・・・被害者を守るためにどのように介入者は対処すべきか、加害者が更正と回復に向かえるように、どのようにケアすべきか、私も暗中模索が続いています。でも、いくつかの経験から、私は「ものさし」をいつしか持つようになりました。この「ものさし」について、そして「ものさし」を使った事例を、いつか少しずつこのブログでも皆様にご紹介してゆきたいと思っています。

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2008年5月21日 (水)
同窓会

先日、30年ぶりに高校の同窓会があり20分だけ顔を出しました。長くいたかったのですが東京に帰る用事ができてしまいました。(幹事さん、ごめんなさい。)ストーカー事案を手がけているとプライベートな時間は本当にとりにくく、皆さんをがっかりさせることばかりです。

それにしても、人間って思い出せるものですねえ・・。30年間一度も思い出さなかった人を見て、私はすぐに記憶がよみがえりました。きれいにお化粧されたお顔を見たとたんに当時のセーラー服姿が髣髴としました。心は簡単に過去に戻れるということを私は知りました。思えばこの30年間に私はたくさんの人と出会って生きてきました。良好な関係をもてた人たちと、まったくそうでない関係であった人たち・・・記憶はないまぜになっています。普段は忘れていても、心の奥底では出会った人たちとのたくさんの記憶が心情とともに保存されているのですねえ。

心理療法は感情の処理だと言いましたが、思い出の処理(編集)とも言えそうです。人は過去と現在に起きた「出来事」から「認識」を通して現在の「感情」を持てているわけですから。認識が変われば感情も変わります。たとえば自分のことを嫌いだと思っているのではないかと思われる人間はどうにも好きになれないものですが、あるとき何かの具合でその人間が自分を好きなのだとわかったとたん、その人を好きになるなんてことはありますね。新たな情報により認識が変化し感情を変えたのです。苦しい感情をお気に入りの感情に変えること、つまり自分が楽に生きられる新たな認識を得ること、作ることのお手伝いを心理療法では行います。

心理療法の一つの例ですが、過去自分をいじめた相手がいて、その人をどうしても許せないと思い続けて生きてきた人がいました。いじめた人は離れてしまっていて今さら問題を蒸し返せない。自分の心に恨みだけが残ってしまっている。言いたいことを言いたかったと悔やんでも過去に戻ることはもうできません。こんなケースでは、イメージ療法をします。過去に気持ちを戻してカウンセリングルームの中で相手と対話をするのです。そして過去言えなかった本当の気持ちをぶつけます。イメージの中の作業ですが、これで心を完了できる人もたくさんいらっしゃいます。親、兄弟、教師、友達、いろんな相手との過去の確執から逃げられないで苦しんでいる人はたくさんいます。時に、自分の恋人の過去のお相手に対して、会ったこともないのに嫉妬して苦しんでいる人もいます。

前回、言いましたが、自分が持った感情のすべての責任は自分にあるということです。たとえ、いじめられたという出来事があったしても、いじめた相手を憎む感情、あるいは自分はだめな人間だと卑屈に思う感情を持ったのでしたら、その感情は自分固有の認識・・この場合、 いじめる人間は本質的に悪い人間だ、いじめられるものは弱いとの認識・・のフィルターを通して持った自分固有の感情なのです。彼氏の過去の恋人への嫉妬などは誰も解決してくれません。時々、「過去に私以外の女と付き合ったあなたが悪い。せめて、今まで交際した女性の中で私が一番好って言ってくれなければ!」と相手に真剣に怒りをぶつけて嫉妬を解消しようとする人もいますね。(余談ですが、著者辻仁成の『人は思い出のみに嫉妬する』は素敵な小説でした。)

しかし、今回私は同窓会に出たことで実際に過去に戻れました。そして図らずも、望んでいなかったのに、ひとつ心を完了できました! これは凄いことでした。高校時代、教室の席が前後していてよく会話していた男子がいましたが、私は彼を少し好きだったのです。今回、その男性とちょっと話ができて当時の気持ちをお互いに少し分かり合ったような気がしたのです。彼はそんなことを忘れているだろうと思っていたのに、楽しかった会話を彼も大切な楽しい思い出にしていたことを知ったのです。うれしかった。彼が別の女子と付き合い始めた時、私の心は小さな痛みと寂しさを覚えたのですが、30年もたった今でも、その痛みはそのまま保存されていて、そのまま感じられるという素晴らしいことに気づいたのですから。若返った気がしました。おばさんねえ。それにしても、いったい思い出したくもないそれ以後の大きな出来事たち、それらによって私が持ってしまった恐ろしいほどの分量の感情とはどんなに大変なものだろう・・・蓋を開けたら凄いんだろうなあ・・・。

前回、お約束していた詩ですが、そこには過去の両親との出来事から彼女が持ってしまった悲しい感情がつづられています。彼女は悲しさを忘れたくてたくさんの異性にしがみつきましたが、いつも満足できませんでした。過去の親との心の葛藤に、イメージにおいて取り組むことが彼女の回復の始まりでした。次回、詩をご紹介します。

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2008年5月 3日 (土)
介入するということ

一週間に一度は更新しようと思っているのに、先週はストーカー案件や離婚相談がまとまって入いってしまったのでブログがお留守になりました。私はストーカー案件については同時に5件までしかお受けしないことにしています。それ以上になると何かあったときにも緊急に対応できないですし、私の気力と知力も分散されすぎてしまうからです。相談者には申し訳ないとは思いつつ、警察で注意や警告をしてくれればなんとか加害者も矛を収めてくれそうな、方向転換できそうな、という場合はお断りをします。

私がカウンセラーとしてストーカー案件に介入する、そして解決するとはどういうことか・・・今日は、それを話したいと思いました。

本当の解決と介入とは、「加害者」と呼ばれる人が加害行為 と言われる ( 受ける側には苦痛と恐怖以外の何者でもない ) 行為をせずに日々を過ごせる心理状態になること、それまで関わり続けること だと私なりに見定めています。処罰や民事訴訟の勝利は、あくまでも「見なしの解決」と考えています。処罰してもらうことや民事で接近禁止の仮処分をもらうことは、それまで深く付き合っていた相手を手術のように切断し排除する手法ですが、それで本当の安心が得られるとは感じないのです。法的解決を求める人に対して警察のミッションは大変ありがたいものですし、私も危険回避の拠り所として頼りにしております。体を張ってくださる警察官の方には常に尊敬の気持ちを抱いています。でも私はカウンセラーですので、当事者たちの心の安全を確信しない限りは事案から離れることはできません。たとえ加害者が逮捕され刑務所に入ってもカウンセリングは続くものと考えています。刑務所へ家族とともに面会に出かけ話をしたり、手紙のやり取りをするのもそのひとつです。出所後にカウンセリングに通ってもらうこともあります。

私がなぜストーカー案件に介入するのか、それは私自身が過去ストーカーの被害者であり、そのまた昔には加害者でもあったという体験を得たことが動機の全てです。ストーカー事案の本質とは、人間が自分の心の弱さを “どうしようもなく” 克服できないという悲劇にある と理解をしたので介入することにしました。加害者は本当は被害者よりも傷ついている、そのほうが多いと言ってもよいかもかもしれません。傷ついた心をもっている人がいる以上、それが「加害者」であろうとも救われるべきであると私は信じているのです。ただし、それは自らの犯した罪を理解しなくてもよいとか責任を取らなくてもよいとかということではありません 。( 「常識のものさし」について以前少し触れました。きっとこのブログでいつか介入の実例をご紹介することになるでしょうから触れるつもりです。)

「加害者」にとって一番の望みは 処罰されないこと などではありません。彼らの心は果てしなく彷徨っていて、すでに社会の枠組みなど関心がなくなってさえいるほどに余裕を失っています。こういう「加害者」は、自分の心が救われたと感じられた時に初めて処罰を受ける意味を理解し納得すると私は推測していますし、実際もそうでした。「加害者」は、自らの心が救われるその時まで、まるで煮え湯を飲むような日々を送っていることを私は想像できます。

昔、私がストーカーであったとき、朝を迎えるごとに太陽がギラギラといやらしいほど眩しく、「今日一日をどうやり過ごせばよいのか !」 と、逃れようもない息苦しさ、絶望感の叫びが体中にこだましました。ひと呼吸ひと呼吸は煮え湯を飲むような痛みを伴い、布団の中で身もだえするばかりでした。この苦しみから解放されるには彼が戻ってくれること、せめて私の苦しみを理解してくれることだと、そのようにしか考えられませんでした。しかし彼にはそんな余裕はありません。新しい彼女と、私からの加害行為からどう身を守ろうかと頭を寄せ合いながら悩んでいたのでした・・・。 そんな私が救われたのは偶然の神の差配でしたが、私はそのときの自分を思い出しながら「加害者」ケアをしています。

ストーカーであることをやめられた私は、後にカウンセリング、特にセラピーの勉強を始めました。そのとき師匠から教わりました。「どんな感情を持ってもそれはあなたの自由だ。恨んでも憎んでもよい。しかし、その感情は相手という誰かに持たされたのものではなく 、自分自身が持ったものだと心に決めること。そして、自分の感情は完全に自分で処理をすることです」と。 以来、セラピーとは自分の感情の処理の仕方を学ぶことだと理解してきました。師匠の言葉を聴きながら私は過去を振り返っていました。 人間が本当に救われたときには真実そのように感じられる と了解できたのでした。

従来言われてきた一般的な犯罪の動機とは、金、権力、情欲を満たさんがためのもの、いわば社会的・経済的敗者による恨みと復讐であり、非合法的な手段よる上昇への願望です。ストーカーと呼ばれる人の心の中にも、愛する人に「裏切られ」「捨てられた」という敗者の恨みや怒りがあります。しかし私がお会いした多くのストーカーと呼ばれる人たちは、おしなべて幼い頃から自信の弱さを必死で隠し、努力の成果である鎧を身につけがんばって生きてきた、まじめで一倍寂しさに弱いという人たちでした。

愛する人に出会えて、ようやくひょっとしたら自分に鎧は要らない、自分が本当に求めてきたものは社会的成功や賞賛などではないのかもしれないと気づき始めた頃 ( 残念ながらその気づきは遅すぎた、いつものやり口である支配と追いすがりは相手を苦しめてしまった ) に捨てられた悲劇。 あるいは例えば、不倫相手からの ( いい加減な ) 結婚の約束を信じていたのに、ある日突然「それは単なる非日常の夢だったんだよ」と別離を告げられてしまったケース。「加害者」は、怒りと苦悩のうちに相手に救いを求め続けて、それが攻撃となってしまっていたとしても私には彼女を責めたりできません。 「でも、それは加害行為に当たるんだよ」 と伝えることから私の介入は始まります。

・・・以下のコメントをしてくださった苦悩の中にある方に、私は今日お手紙を書いているつもりでした。貴重なコメントをありがとうございました。

次回は、「加害者」になってしまっていた女性が私に送ってくれた詩を皆様にご紹介いたします。彼女は自分の詩をいつでも自分と同じように悩める人たちに届けてほしいと言って書いてくれました。もう10年も前のことです。今はその女性にはかわいらしい女の子がいます。

※いただいたコメントの抜粋

「被害者が加害者であるケース(それは法律で裁けなくとも)がございます。
加害者と不本意にも呼ばれることに陥ったのは必ずしも加害者の「病体」だけが原因ではございません。

幸せに生きて欲しいですか?かつて愛した誰かを我が身だけを案じて(身勝手)訴訟する被害者も実在いたします。

訴訟前に被害者がどんな行動を起こしましたか?」

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2008年4月13日 (日)
入社式考2

怪訝そうな表情の彼に私は言いました。「先ほどのご挨拶で、何でも社員のしたいことをさせますって○○さんはおっしゃいましたよね。」 「・・はあ、しかしそれは会社が、ということで何も私がということを言ったわけではないので・・・」 「まあ! では御社ではどなたがそれをさせるのですか?」 「・・・」

日々の生活の中でとても多くあることですが、「私たちは」とか、「わが社は」とか複数形の主語で物事が語られる時、言っている本人の「私」は隠れます。 この上司も、「わが社は社員がしたいことを何でもさせます」とは言えても、「私は社員がしたいことを何でもさせます」とは言いにくいようです。 それは主語が複数であればあるほど、話している自分の責任がぼやけてくれるからです。

「われわれは」、「女は」、「男は」、「日本人は」、「うちの会社では」、「我が家では」などの言い方をしている自分に気づいたとき、試しに主語を「私は」にして言い換えてみましょう。一般論を語っていながら、それとなく自分の意見や気持ちを混ぜて表明していることってとても多いのです。そういう場合、一般論をやめて主語を私に換えてみると俄かに勇気が沢山要ることに気づくでしょう。そして同時に、突如として生き生きとした自分というものが語った言葉ととともに現われ出て来たような感じがしませんか?  自分は正直で、言葉に責任が取れる人間なんだなあと自分を尊敬したくならないでしょうか? 心理療法では、頭で考えているだけでなく言葉に出してみるということをよく行います。そのとき心に起きる「感じ」がとても大切なのです。 さあ、自己表現は責任を取ることと同時に起きると、あなたは知得、体得、納得できましたか? 

私は、「私は」という主語で語れないことはなるべく語らないようにしています。それを意識していれば、どうしても複数形の主語を使わなくてはならないときには自然と言葉が正確になります。たとえば先ほどの上司の挨拶も 、「わが社では部下がしたいことをさせたいという価値観があり、私もそのように心がけています。」のようになり、事実を丁寧に、自分ができることだけ語るようになります。言葉のもつインパクト、張ったりは消えますが平凡でも真実味が現れてきます。そして、その人が親しみ深く感じられます。

恋人同士の会話でも、「あなたはオカシイってみんな、そう言っているわよ。」と、喧嘩のときに言う女性がいますね。 でも本当は、「私は、あなたはオカシイと感じるわ。」でしょう。自分の考えや感情なのに、その責任をその他大勢に取らせても真実味がなく本当の会話にはなりません。気がつかないと、いつの間にかやってしまうことです。交際中、相手を責める人間は本当にこういう言い方よくしています。

「てめえはやくざな女だ。」「お前は非常識だ。」「お前には心がない。」 これらは私が過去ストーカー的な男によく言われた言葉の数々です。主語は当然私一人、でも今度は述語が「複数形(!)」 つまり抽象的です。抽象的な批判は人を苦しめ、混乱させます。改めようがないのですから。ニッチモサッチモ・・・どうせなら、もっと具体的な指摘や批判をしてほしいと頭をくらくらさせながら考え込んだものです。

具体的でない意見や注意、叱責には多くの場合悪意が隠れていることがあります。「何でできないの!! いつも同じ失敗ばかりして。」という質問も同じ。「なぜ」と問われて正確に答えられるなら失敗しません。「なぜ」には人は答えられません。こんな風にしかられている社員や子供・・・見ていてたまらなくなります。上司の方にお願いしたいです。「何でできないんだ!」と怒鳴らずに、「どのようにできなかったの?」と、WhyではなくHowで質問してあげてください。部下は具体的に考えられて、答えられるでしょう。よくなってほしいのなら相手を追い詰めないことに限ります。

○○さんは、部下である女性のことをため息混じりに言っていました。「彼女が新人に指摘していることは確かに間違ってはいないのだけど、うまくできても 『もっと意欲的になれ』とか、『もっと高度な回答を出せ』とか、『まだ遅い』とか、なかなかすぐにできそうもないようなことを要求するのですよ。少しミスすると謝っても簡単には許さない。『何で? 何で間違ったのか?』と問い詰め続けるのです。」と。

続く

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2008年4月 7日 (月)
入社式考

新年度、多くの会社で入社式が行われました。私が顔を出した会社での出来事をお話します。

その入社式では、社長のお話の後で配属先の各上司が一人ひとり挨拶をしました。私の顔なじみである「上司」も、胸を張って大きな声で言いました。「わが社は、皆さんがやりたいことを何でもしていただく会社です。新しい考えを常に抱いて、私たちに提案してください。」 実はこの彼、部下の扱いで悩んで私のところに相談にきていた上司です。カウンセリングルームでの悩ましげな風情は消え威風堂々、私は感心してしまいました。

彼の悩みとは大まかに言えこんなことでした。彼の部下である女性は勤めて年月の長いベテランです。たいていのことは彼女に聞けばわかるので部内でも尊敬されています。その部署に半年ほど前に中途で新人が入りました。この新人は前職で大変専門性の高い仕事をしており、それを見込まれて入社してきたのです。自分の能力にもそれなりのプライドがありました。しかしそんなことにはお構いなしに、先輩である彼女は彼に厳しい指導を行いました。彼女に言わせれば「あなた程度の人は私たちの会社には大勢居ます。謙虚に私の指導を受けて、頑張るように。」とのことで、以来、周囲が見ても褒めてもよい場面でも決して褒めず、見逃してもよいような瑣末なことでも細かく指摘をしているというのです。

「彼女の指導の内容は細かくて厳しいのですが決して間違っていませんし、彼女も『役割を果たしているだけです』と言うのですが、どうも見ていると彼の前職に対する嫉妬が混じっているとも思われるような冷たい態度なのです。」 転入社員の彼は顔色がだんだんと悪くなり会社を休みがちなのだと。「彼への指導を少し緩めるようにと言ったのですが、『では、私が意地悪で彼に厳しくしているとおっしゃるのでしょうか』と膨れるばかりで、言うことを聞きません。」 部下に優しいことが定評の所属長である彼は顔を曇らせるのでした。

そんな相談があった翌月の入社式、別人のように元気な彼の姿に私は目を見張ったのです。彼はロビイで休んでいる私のところにやってきてにこにこ明るく話しかけてきました。「先生、私の挨拶、どうでした? 今年の新人はなかなか優秀で私としても大いに期待しているのですよ。 」 私はちょっと間をおいて彼に聞きました。「○○さん、あなたは本当に新人がやりたいことを何でもさせるのですか?」 彼は怪訝そうに私の顔を見つめました。 まるで、自分がいつそんなことを言ったのか? とでも言いたげに。

続く

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2008年3月24日 (月)
女にモテるということ

男が女にモテるということについて。 私も女ですから、モテる男には興味がわきますし、なぜモテるのだろうと思いをめぐらせたりします。

金満家や芸能人みたいに女にとって何かしらの利があるからモテるということではなくて、女に性的な刺激を与えるという意味でモテる男とはどんな男だろうか。私は、そんな男には 女を好きで、女との関係を心から楽しめる余力 の存在が感じられます。

女に関心がない男とはどんな男か。 それは 清潔でない ということにつきます。だからモテる男が清潔なのは当たり前。でも、それだけでモテるものではなく、余力 を感じさせることが肝心です。お金の余力ではありません。よい服を着ていることも本当にモテることとはほとんど関係ありません。 お金や服に頼らない さりげない余力 が男の色気ではないでしょうか。そんな男は、女の目をまっすぐ正面から見ることができる。男同士で話すときも微笑んでいる。頷きながら人の話を聞いている。控えめで落ち着いた思慮深さを感じさせる話し方である。お金の話はさりげなく避けている。仕事の話も自分からはしないし披瀝など努々しない。そういうしぐさや態度が、女を十分に愛してくれるであろう 余力 として感じられ、オーバーに言えば身を任せてもよいなあ・・となるのです。

ストーカー行為をしている男に会うと、一見カッコイイ人が多いことに驚かされます。服も髪型も洒落ているし、仕事も人並み以上のことをしている人が多いのです。お会いした人たちの中では一流と呼ばれる企業の会社員が多数をしめ、マスコミ、警察、弁護士という人たちも普通にいました。さもなければ頭もよくてカッコヨイのに、なぜか定職を持たない生活を続けているかです。

ストーカー行為は特定の異性に対する依存症。支えてきてくれた恋人がいなくなったら生きてゆけないというパニック心理です。そういう人はもともと自分一人でいることが不安でたまりません。恋愛していないことに劣等感を抱いたり、愛されなくなっただけなのにそれを取り返しのできない傷だと思い込んだり。要は、あるがままの自分 (性格、人格、能力、容姿 、生育歴) に自信がない人たちです。こういう人たちは子供の頃から人より優れていることで自信をつけようとしてきた人たちであると考えてもそんなに間違いではないでしょう。一生懸命勉強するし、よい会社にも入ります。それがかなわない場合は音楽を志していたり、一気に厭世家となったり、人と異なることを志向します。自分の容姿にも人一倍関心が強いため、それなりにカッコイイのです。でもやはり無理があるというか、他者と接しているとき自分がどのように見られているかを気にしていたりして余裕がないように感じます。

こういう人は一見自信がありそうに見えるのですが、ひとたびプライドが傷つけられるようなできごとに遭遇すると極度にもろさが現れます。パートナーに去られたことで自分を持ちこたえられないほどに動揺し、身悶えします。余談ですが、私がこれまでお会いしてきたストーカー行為者には第一次産業の方は一人もいませんでした。自然を相手に仕事をしていて、努力しても人間にはどうにもならないこともあるということを普通に理解できているからかもしれませんし、あるいは立身出世や見た目の良さという属性などを必要としないほど人間としての強さが備わった人でなければできない厳しい仕事なのかもしれません。

一見のカッコよさや学歴や職業は、あるがままの自分であることへの不安を回避するためのもの、自他に自分を認めさせ尊敬させるための鎧。こんな人間に引っかかってしまうと後が大変です。ストーカー被害にあわないためには、何よりストーカー的な人間とつきあわないことです。付き合ってしまうと交際中は常に尊敬と賞賛を求められます。それくらいで収まってくれれば我慢もできますが、中には支配欲から監視をしたり、人を屈服させたい欲望を満たす対象とみなして酷い言葉でののしったり、ねちねち責めたり、暴力を振るったり。何かよくないことが起きれば何でも「お前のせいだ」と責任を押し付けてくることになってしまいかねません! いよいよ我慢できなくなって「別れたい」と伝えると、今度は「俺と別れるなら今までの経費のすべてを精算しろ」と言われたり、「何が起きても知らないからな」などという脅迫や家族にまで残酷な仕打ちをされてしまう。それでもやっとの思いで逃げ出すと、ついにはストーカー行為を受けてしまう。こんなパターンの相談が私のところには本当に多いのです。だから、私は言いたいのです。別れるとき死ぬほど悩まずにすむように、付き合う前にこそうんと悩みましょうと。

相手に好かれることばかりを考えている人間はストーカー的です。一見魅力的なストーカー的人物に気を付けてください。彼らは人に興味があるので、狙った人間の関心をひきつけることにかけては秀逸です。話題も豊富です。自分史と自慢話が多く、外来語や専門用語がふんだんに出てくるなどの特徴もあります。あるいは影のある風情をかもし出していたり、同情を引く話をしたり。歯が浮くような賛辞、まめまめしい連絡(一日3通以上の用もないメール)、高価なプレゼント、はじめは心地よいこともいろいろとしてくれます。でも、それはすでにあなたが目を付けられている証拠。・・この女は自分の思い通りになりそうだ・・・って本能的に無意識に感じて忍び寄っているのです。私のところに来る被害者の多くは相手に一目ぼれしてしまって、まったく相手を検討しないまま付き合ってしまった方が多いのです。

本当にもてる男とは、相手に好かれようとしているよりも、相手を大切にしようとする男です。あなたが「この人には魅力があるなあ」という意識を持ったときに、その点をよくよく気をつけて観察してください。自分以外の男性や店員やお友達との接し方をよく見ること、公平で優しいかどうか。テレビなどに出てくる人に対する評価に気をつけること、ストーカー的な人物は自我がすぐに傷つくので、自分よりも容姿や収入、立場が上の人間を見るとけなしたくなる特徴を持っています。 鏡があると必ず自分の姿を映して見るようでは過度なナルシストである可能性があります。 男の意見に反対意見を言ってみたときの反応も大事。激昂したり、聞き苦しいほど理屈っぽかったり、咳き込むように反論を始めたりしないで落ち着いてあなたの話に耳を傾けてくれるかどうか、その後の機嫌はどうか、これらは簡単にできるチェックポイントです。

それでも付き合ってしまって(!)半年くらいたって(たいてい半年で本性が現れます)、あなたが「どうも苦しいわ」と思ったときに、相手をさらに見極めるチェックポイントがありますので、いつかお話いたします。

別れる決断ができたら、簡単に別れられると考えないこと。まず肉体関係を絶つ。ものの貸し借りなどの整理や別れた後の体制の準備をし、いよいよ別れを切りだすタイミング、その言葉の伝え方、などなどストーカー的人物と別れるために気をつけなくてはならない留意点があります。

・・・人を好きになること、愛し合うこと、についての情報は世の中に沢山あります。しかし、人生と世の中の半分は人を嫌うこと、嫌われること、別れることについての分野です。これに関する情報が本当に少ないことは困ったことです。

相手と他人を大切にできる余力があるかどうか、それがストーカー的でないことの境界線。それはだんだんと惹かれる魅力、そこはかとなく じわじわ来る魅力。モテる男は一目ぼれされたりはしないものです。一目ぼれではなく、じわーっと魅力が溢れてくる、気がついたら気になって仕方がない・・・(私には)こんな人です。

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2008年3月16日 (日)
指輪の思い出

初めて指輪をしたのは高校生のときでした。いくつもの野いちごの形をした小さな赤いガラス玉が金の輪に散りばまったイミテーションでしたが、お気に入りで、こっそりつけていました。それ以来指輪をしていない日は 「ある1年間」 を除いては一日もないかもしれません。そのくらいに指輪は私の体の一部みたいなものです。

指輪はいつも自分で買っています。そうしたいというわけではなく、誰も買ってくれないからです。バッグや服、ネックレスとかブレスレットはもらったことがありますが、人生で指輪をプレゼントされたのは婚約指輪だけです。でも結婚が終わったときにその指輪も消えてしまいました。婚約指輪以外に男から指輪をもらったことがないという女は少数派なのでしょうか? ときどき「これは彼にもらいました」と言う人に会うと、ふとつまらない気持ちになります。何を隠くそう、この年まで、私は男から指輪を贈られるという格別な体験!に憧れてきました。今日はちょっと私のそんな気持ちを白状したい気持ちです。

30歳になりたての私は、あるときイギリスで見たアンティークのステインドグラスが大好きになって、残りの30代はステンドグラスを探しては輸入して売るという商売に没頭しました。この商売のためにイギリスなどに頻繁に行っていたので、自然とアンティークジュエリーも趣味になっていました。今考えると、びっくりするような石がごろごろした指輪も買いました。よくもまあ買ったものだと思いますが、どうしたわけか大切にしていたそれらの指輪が今はひとつも残っていません。トイレで忘れたり、飛行機の中で落としたり、引越しのときになくしたり、一つ一つに思い出があったのにと残念になるときもあります。

しかし反対に、とり立てて大切にしてこなかったのに、いやというほど私の元から立ち去らない指輪があります。それは私が結婚して子供を生み 1 年ほどたった頃のこと、私は結婚生活と育児に悩んでノイローゼっぽくなっていました。そんなある雨の日、自由が丘を歩きながらふと立ち寄った丸井デパートでゴールドの指輪を見つけました。シンプルなティアラの形に目が留まりました。その指輪を見つけたとき、私は自分の指にずいぶんと長いこと、たぶん子供を生んでからというもの指輪がはまっていないことに気づき驚きました。 「私は指輪をつけることを忘れるほど自分を見失っているのだわ・・・」 自分が無理をしすぎていることに気づいたのです。もっと自分を生きよう。妻とか母親とかであると同時に私は私なのだものと思いました。はっと目が覚めて大きく息を吸い込んだ気分でした。そして私は何がしたいのかなあと・・・。何も見えはしませんでしたが、 「 この指輪を買おう。自分を大切に生きよう。いつかしたいことに出会ったときに、ちゃんとそれができるように私を見失わないようにしよう。」 と決めたのです。

それから1年後、私はゲシュタルトセラピーを学び始めました。セラピスト養成コースを修了、社員教育を請け負う会社に入社し、独立、独立後まもなくステインドグラスと出会いました。多忙で慌しい日々の中にも華麗な瞬間が散りばめられたなんとも魅惑的な時代が訪れました。いつしか私の指には丸井で買った指輪の代わりに大きな石がごろごろついた大仰な指輪が嵌っていました。結婚指輪が色あせて見え始め夫との仲も不仲になりました。「おかあ、いつ仕事をやめるの?」と寂しそうに訊いてくる子供を残し出張する自分を責めつつも、麻薬に取り付かれたように仕事をする日々でした。

その仕事と決別して、もう10年近くなります。この10年、私の指はけっして贅沢ではないけれどささやかに洒落ている指輪たちと仲良くしています。でも今日は、丸井で見つけたあの指輪を目にして、付けてみました。すると切なさが胸いっぱいに広がりました。あれから23年・・・この指輪を買ったときの私はなんて頼りなく、小さく、けなげであったろう。迷い、迷い、たった一つの指輪に思いをかけて生き始めた自分、今振り返るといとおしくてたまらない。傘をさして歩いて帰った道、もう一度生きようと思いながら。

この指輪は、がんばって買ったという特別なものではありませんでした。人に見せるためでも、虚飾の自己満足ためでもなく、ただ私自身であることを認めてくれる、自分に来る未来を自然に約束してくれる自分そのものでした。( こんな指輪のようなパートナーがいたら素敵でしょうねえ。そして、こんな思いで指輪を贈られたら・・・憧れます!) だから意識もせず普通に付き合ってきたのでしょう。長いこと身に付けることも忘れていましたが、失くなくなることもありませんでした。

誰にでも、苦しいときはあります。死にたいと漠然と思ってしまうこともあります。でも、未来は常にそこにあります。未来が始まる瞬間を感じとるのに、何らのビジョンも自信も根拠も要りません。ただ、感じとるだけでよいのです。それは自分を見失い無心に彷徨っているとき、ふとした瞬間に感じ取れるものであるように私は感じるのです。

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