ストーカーの加害者カウンセリングをすると、ストーカー行為を「故意」に行っている者よりも、「加害意識なく」行為をしている者の方が多いことに気づきます。
法律では、責任追及をする際、原因を「故意」と「過失」に分けます。法律上の「過失」は「故意」が認定できない場合に自動的に原因とみなされるもので、いわば制度的な原因です。「やってはいけない行為だと普通なら気がつくはずだし、気がつくべきだ」ということです。
ストーカーの加害者の多くは警告されて初めてストーカーであることに気づくでしょう。その意味では、彼らは過失犯です。「犯罪行為だと気づきなさいよ、やめなさいよ」というのが「警告」ですが、ストーカーの加害者は犯罪行為であることに気づかなかったからストーカー行為をしていたわけではないので、「そこは駐車禁止ですよ」と言われた時のようには「はい、分かりました」と素直に行為をやめることができません。やめたとしても心中は納得のいかない思いでいっぱいです。「なんで私がストーカーなの?」と。ストーカー行為をしているときの彼らの心理は、自分を被害者だと思い込んでいる、正当な権利の主張をしてる意識でいる、あるいはパニックと禁断症状に陥っているなどです。ですので、「警告」をする際には、彼らの真意、制度的原因ではない心理的原因を聞き出し、ストーカー行為をする以外の解決の道を示してみせる必要があると私は考えます。
ストーカーだけに限らないでしょう。世の中は「責任を取らせる」という法的解決だけでは解決できない問題だらけです。「責任を取らせる」という法的解決は最重要の社会政策であることから、原因探求はどうしても二の次となります。しかし、何事かを本当に解決したければ原因の探求と自己反省が不可欠です。二の次でもかまわないので原因の探求は継続して行うべきです。世の中はさらに進み、今や「無過失責任」の時代になりましたから、ますます因果関係はどうでも良くなりつつあるのではないかと心配です。
社会政策の相似形として家庭内に見られるのは、未成年の不法行為(たとえば子供が友達を殴った、苛めた、飲酒した、盗んだ、など)に対する保護者の解決の仕方です。親が謝罪し、親同士が話しあい問題を終えてしまう。当の子供たちは隠し、加害行為をした子供にはきつく叱る程度で原因を一緒に掘り下げて考えたりしない。デートDVの場合ともなれば、可罰の問題や慰謝料の話に終始し、せいぜい二度と接触させないなどを双方の親の間で合意し、終わります。加罰や慰謝料や示談が悪いとはいいませんが、それだけではダメだと言います。自分の子供が暴力を振るった原因を考え、家族全員で話し合い、カウンセリングを取り入れるなどし、二度と暴力を振るわないという決意を子供に持たせることを意図しないのは、弱く悲しいことです。
そもそも加害者の親の立場になったときに相談できる場所も少なすぎます。警察や被害者センターに相談に出かけた親がいらっしゃいましたが、「『被害者に告訴してもらいなさい』と言われただけだった」そうです・・・。
親たちが話し合っているころ、あるいは警察の生活安全課に相談に行かれているころ、隠されている加害子供は「ああ、馬鹿なことをしてしまった。」という後悔をしているはずです。このとき彼を孤独にしないこと、一人で考えさせないことが大事です。周囲の人間はよく「一人になって考えろ」とか、「何であんなことをしたのか頭を冷やして考えてみろ」とか言いますが、間違っています。原因が悪意という「故意」であれば確信犯で、後悔すらないでしょう。こういう人間のカウンセリングは別の機会のテーマとして、今は、悪いことだとは感じなかった、意識がなかった、「自然にしてしまった」不法行為の話です。
自分にとって自然な行為の原因など、自分で分かるはずがありません。水にもぐったとき「何で息を止めたの?」と聞かれるようなものです。「息を止めなければ苦しいから」としか答えられないでしょう。叱責したり原因を明確にしろと問い詰めたりするのは間違っています。「何故自分はそのようなことをしてしまったのか?」と一人で自問しだすと、答えが見つからないため 、「そういうことが平気でできる人格なのか?」と自分の人格に対する不信感を持ち出します。・・・これは自分だけの馬鹿な失敗、自分は不幸でダメな人間、こんな俺にしたのは誰かの責任、そもそも相手も悪い、どうして自分だけが責任を取るんだ、納得できない・・・という思考になりかねないわけです。原因は、Why 「何故?」という質問からではなく、How 「どのような気持ちであったか?」という質問の中から見出されてゆくものです。皆で発見してゆくものともいえます。
皆で考えることの決定的な利点は、加害行為というものは誰もがしてしまう馬鹿な失敗であるということをシェアできる点にあります。個別、自分の加害行為の原因を探しながらも、加害行為をしてしまうことは誰にでもありえることだと知ることが大事なのです。そうすれば安心して原因を考えられる。皆の失敗やそのときの気持ちを聞くことによって自分の失敗が客観的に見えるようになる。その原因も「こういうことだった」と自覚できてくる。客観的にも認めることができるようになる。だから潔く責任を取ることができる。社会にも自分の人生にも。少なくともそう思えるようになる。そうなったら彼はもう別人です。
原因を探求することは自罰することとはまったく違うことです。深刻さから離れること、自分にも周りにも正直さが何より必要です。