2010年1月18日 (月)
自罰

法律上の制度的「過失」ではなく、道徳的に「過失」と呼ぶのがふさわしい行為があります。たとえば浮気心、ちよっとした相手を傷つける言動、部下への気遣いのない叱責、過保護の子育て、熱心過ぎる求愛行動、セクハラにも近い行為、老人に電車の席を譲らない、路上に倒れる人を見ぬ振りする、嫉妬していた人が突然不幸な境遇になる(この場合は嫉妬していたことが問題となります)、度の過ぎた社交辞令、など。これらの行為には悪意はなく、しかし「このくらいは問題ではないだろう」という認識の甘さや無知が前提にあり、「過失」です。

この手の過失は私には沢山あり、ありすぎて、そのたびに後悔し自分を責めます。「自罰」は悪いもののようにも言われますが、道徳的「過失」に対してできることは「自罰」くらいです。違法行為や不法行為に対しては責任を取れますが、被害者が顕在しない(顕在していても)道徳的過失は心の中で自分を罰するしかありません。それがたまらなく辛ければ神様の前で懺悔すべきであって、世間に懺悔しても自分の心の苦しさまでは誰も助けてはくれません。つまりは日々新たに自罰し、悔い改めるしかないのが道徳的生活と言えるのではないでしょうか。

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2010年1月17日 (日)
原因を考えること

ストーカーの加害者カウンセリングをすると、ストーカー行為を「故意」に行っている者よりも、「加害意識なく」行為をしている者の方が多いことに気づきます。

法律では、責任追及をする際、原因を「故意」と「過失」に分けます。法律上の「過失」は「故意」が認定できない場合に自動的に原因とみなされるもので、いわば制度的な原因です。「やってはいけない行為だと普通なら気がつくはずだし、気がつくべきだ」ということです。

ストーカーの加害者の多くは警告されて初めてストーカーであることに気づくでしょう。その意味では、彼らは過失犯です。「犯罪行為だと気づきなさいよ、やめなさいよ」というのが「警告」ですが、ストーカーの加害者は犯罪行為であることに気づかなかったからストーカー行為をしていたわけではないので、「そこは駐車禁止ですよ」と言われた時のようには「はい、分かりました」と素直に行為をやめることができません。やめたとしても心中は納得のいかない思いでいっぱいです。「なんで私がストーカーなの?」と。ストーカー行為をしているときの彼らの心理は、自分を被害者だと思い込んでいる、正当な権利の主張をしてる意識でいる、あるいはパニックと禁断症状に陥っているなどです。ですので、「警告」をする際には、彼らの真意、制度的原因ではない心理的原因を聞き出し、ストーカー行為をする以外の解決の道を示してみせる必要があると私は考えます。

ストーカーだけに限らないでしょう。世の中は「責任を取らせる」という法的解決だけでは解決できない問題だらけです。「責任を取らせる」という法的解決は最重要の社会政策であることから、原因探求はどうしても二の次となります。しかし、何事かを本当に解決したければ原因の探求と自己反省が不可欠です。二の次でもかまわないので原因の探求は継続して行うべきです。世の中はさらに進み、今や「無過失責任」の時代になりましたから、ますます因果関係はどうでも良くなりつつあるのではないかと心配です。

社会政策の相似形として家庭内に見られるのは、未成年の不法行為(たとえば子供が友達を殴った、苛めた、飲酒した、盗んだ、など)に対する保護者の解決の仕方です。親が謝罪し、親同士が話しあい問題を終えてしまう。当の子供たちは隠し、加害行為をした子供にはきつく叱る程度で原因を一緒に掘り下げて考えたりしない。デートDVの場合ともなれば、可罰の問題や慰謝料の話に終始し、せいぜい二度と接触させないなどを双方の親の間で合意し、終わります。加罰や慰謝料や示談が悪いとはいいませんが、それだけではダメだと言います。自分の子供が暴力を振るった原因を考え、家族全員で話し合い、カウンセリングを取り入れるなどし、二度と暴力を振るわないという決意を子供に持たせることを意図しないのは、弱く悲しいことです。

そもそも加害者の親の立場になったときに相談できる場所も少なすぎます。警察や被害者センターに相談に出かけた親がいらっしゃいましたが、「『被害者に告訴してもらいなさい』と言われただけだった」そうです・・・。

親たちが話し合っているころ、あるいは警察の生活安全課に相談に行かれているころ、隠されている加害子供は「ああ、馬鹿なことをしてしまった。」という後悔をしているはずです。このとき彼を孤独にしないこと、一人で考えさせないことが大事です。周囲の人間はよく「一人になって考えろ」とか、「何であんなことをしたのか頭を冷やして考えてみろ」とか言いますが、間違っています。原因が悪意という「故意」であれば確信犯で、後悔すらないでしょう。こういう人間のカウンセリングは別の機会のテーマとして、今は、悪いことだとは感じなかった、意識がなかった、「自然にしてしまった」不法行為の話です。

自分にとって自然な行為の原因など、自分で分かるはずがありません。水にもぐったとき「何で息を止めたの?」と聞かれるようなものです。「息を止めなければ苦しいから」としか答えられないでしょう。叱責したり原因を明確にしろと問い詰めたりするのは間違っています。「何故自分はそのようなことをしてしまったのか?」と一人で自問しだすと、答えが見つからないため 、「そういうことが平気でできる人格なのか?」と自分の人格に対する不信感を持ち出します。・・・これは自分だけの馬鹿な失敗、自分は不幸でダメな人間、こんな俺にしたのは誰かの責任、そもそも相手も悪い、どうして自分だけが責任を取るんだ、納得できない・・・という思考になりかねないわけです。原因は、Why 「何故?」という質問からではなく、How 「どのような気持ちであったか?」という質問の中から見出されてゆくものです。皆で発見してゆくものともいえます。

皆で考えることの決定的な利点は、加害行為というものは誰もがしてしまう馬鹿な失敗であるということをシェアできる点にあります。個別、自分の加害行為の原因を探しながらも、加害行為をしてしまうことは誰にでもありえることだと知ることが大事なのです。そうすれば安心して原因を考えられる。皆の失敗やそのときの気持ちを聞くことによって自分の失敗が客観的に見えるようになる。その原因も「こういうことだった」と自覚できてくる。客観的にも認めることができるようになる。だから潔く責任を取ることができる。社会にも自分の人生にも。少なくともそう思えるようになる。そうなったら彼はもう別人です。

原因を探求することは自罰することとはまったく違うことです。深刻さから離れること、自分にも周りにも正直さが何より必要です。

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2009年12月11日 (金)
カシニョールの女

カウンセリングルームにカシニョールの絵を飾っています。描かれている女たちはたいてい一人でいて、遠くを見るようなぼうっとした目をしています。この女たちを見ると想像力が掻き立てられます。どの女も関心は愛に向いているように感じてきます。夫や恋人を待っている女、誰かと別れたばかりの女・・・。

女なら誰かを愛しているか、まだ見ぬ誰かとの愛を待っているか、そのどちらかでありたいと私は思います。誰も愛していないし、求めもしない、それではまるで人生の入り口を閉じているかのようです。人生は探求です。女が人生を探求する乗り物は愛。待っているだけだって女である人生を探求して生きているのです。

カシニョールの女たちは、愛を待ちながら日々魅力的な女となっていく、私の目にはそのように映ります。

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倦怠ではない

「恋愛の相手に性のときめきを感じなくなった」ということを相談されることがあります。「だから別れたほうが良いかしら」というような相談。初めからときめかなければ問題ですが、途中からときめかないのは普通のことだと考えます。とはいえカウンセラーだから何か気の利いたことを言うべきかもしれませんが、いつも私には特段の言葉が見つかりません。

ただ、どうなのかなあ。性愛っていうものがなくなることを「倦怠」だと解釈するのが良くないのではないかなあ。こういう解釈が見落としているのは、自分には相手を大切に思う気持ちが深まっているという事実です。(事実がなかったら別の話。) それは当たり前のことではない尊い事実です。そういう事実に気づいたら、「性のときめきは、愛の中に消えた」と解釈してはどうでしょう。本当の愛、相手を途方もなく尊重し大切に思う気持ちが始まるとき、性のときめきは役割を終えてその愛の中に消えてゆく・・・。消えてゆくものを未練がましく追っかける必要なんてないし、生まれたものを大事にしてゆくなんて幸せ。迷わないことです。

こういうことを言うのは年をとったからでなく、そういう本当の愛の「尊さ(稀さ)」を私が知っているからでしょう。性愛の挙句の虐待、無視、浮気、ストーカー、そんな事例に埋もれていると、消えていった性愛の居場所がある人は、とても幸せなんだという感慨を持つのです。

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息を合わせる

会話において「息を合わせる」 ということは、相手を「受容」する上で大切なことです。

体の具合が悪くてパワーが落ちている時、矢継ぎ早に息もつかない話し方をされ、体がもたずに話の内容など頭に入らないという体験をしたことはありませんか? 精神がダウンしている時も同じ。相手が弱っている時は特にそうですが、人と話をするときは相手の呼吸に合わせて話をすることが大事です。そうすれば相手は受容されていると感じ、ゆとりをもって話ができます。弱っている相手を元気付けようと、自分のパワーを全開のままぶつけてしまい、かえって相手を逼迫させてしまわないように注意しましょう。

反対に相手が息せき切っているときは、多くは話したいことがあって焦っているのですが、こちらがゆっくりと呼吸をしていれば、相手は自分の呼吸が早すぎることに気づき、呼吸を整えようとします。子供が泣き止まないとき、母親は子供の目線になるよう膝を折り一緒に息をしますね。子供は徐々に落ち着きますが、大人も同じ。相手が速い呼吸をして落ち着かないときは、ゆっくりと呼吸をして、少し大げさにして見せ、相手が自分の呼吸に合わせるように仕向けます。

しかし相手が怒って呼吸を早めているときは、こちらがあまりに余裕を持った呼吸をしていると、「拒絶」と受け取られかねません。「馬鹿にされている」と解釈する人もいます。怒っている人は、相手はもっと焦るべきだ、緊張すべきだという心理でいるからです。私はこんな時は、まず相手と一緒になって呼吸を早めて話を聞きます。すると相手は私の聞く態度に満足し、徐々に怒りを沈め、呼吸も落ち着いてきます。

「息の合った二人」とか言いますが、うまくいっている人間関係は本当にお互いの呼吸がぴったりしています。常に同じということではなく、双方呼吸の合わせ方が上手なんでしょう。焦りやすい人は、落ち着いた呼吸の人を選ぶと安心感のもてる関係になるかもしれません。落ち着きすぎている人には、呼吸の早めの人が二人の関係をテンポよく楽しいものにするかもしれません。私は時々、犬と並んで寝て、犬の呼吸に合わせ目を見つめ合います。時々わざとずらして呼吸でダンスしてみたり、言葉はなくても息の合った者たちという気分で満たされます。

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2009年12月 4日 (金)
師弟

時々、教育テレビのピアノ番組「スーパーレッスン」を見ます。芸術家の域にある師匠が若い世代のピアニストを弟子にし、時に手取り足取り(今日は芸術家がピアニストの頭を両手で抑えてつけていました)弾き方を教えるのです。師匠たちはそれぞれ魅力に溢れ、ピアノを知らなくても興味が尽きない番組です。

どの師匠も技術の先にあるものを教えようとしているように私には見えますし、聞こえます。今日の師匠は、「音をもぐらせるんだ」 「強く弾くんじゃない爆発するのだ」 など理解至難な言葉を連発し、私はピアニストに同情したくなりました。しかし、師匠が 「そうだ!」 と叫ぶようなやり直しを弟子がなしえたときには、素人の耳にも不思議と前よりぐんと素敵になっているのです。ピアニストの輝くような笑顔。これはもう言葉では言いあらわせない何かが起きているのです。

まさに、ここには師匠と弟子が存在しています。人間が本やテレビから、また一斉講義から学べることとは違う次元のことを「師匠」は教えます。「師弟関係」は世の中で一番尊い関係のように感じます。師匠は全身全霊で自分の知(体験の集積)を弟子の血肉に伝えようとし、「弟子」は自分を師匠に明け渡し、空っぽになり、伝えられるものを知得、体得しようとます。こんな美しい関係は他にないように思われます。

今日も、師匠は何度指摘しても音の出し方を変えられない弟子の隣でしばらく腕をぶんぶん振りまわして叫んでいたのですが、ある瞬間ふっと腕をおろして佇み、「君は、いつもそうして音を出してきたんだ。(だからできないんだ)」とハタと気づいたようにし、憐れみを示しました。とまどいと慈愛というものが感じられる優しい口調でした。すると萎縮していた弟子は、またハタと気づいたかのように背筋を伸ばし、師匠の言う別の弾き方ができたのです。知を授かるために、知を授けてくれる師匠のために、自分を空にする、いつものやり方を捨てる、これが弟子の姿なんだなあと、私は感動しました。

私にも師匠がいました。ゲシュタルト・セラピーを学んだ26歳からの6年間、師匠は心理学博士の荒川旬美先生でした。荒川先生の厳しい指導は徹底したものでした。先生は、「伝えるということは全人格で伝えるということ」 を私に教えました。果たして私は良い弟子であったかというとまったく違って、天邪鬼のまま修了して世に出てしまい、恥ずかしく、申し訳ないことでした。

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2009年11月11日 (水)
親身な笑い話

いやあ、嬉しかったし、笑いました。今朝、めっぽうお人よしで強気の非常勤スタッフから電話をもらいました。「大丈夫ですか?」と、大きな声。 「うん。元気だよ。どうした?」 「あんなにブログを更新しちゃって、どうかされたのではないかと。更新していないときは平気なんですよ。忙しいのか怠けているからでしょうから。でも、先生が一気に更新するなんて、本当に心配になりました。」 「ひぇ。そんなものかね。私は元気になったから書いたんだけど、それじゃあSOSはブログを更新することだねえ。ハハハ」 

気は優くて力持ちの彼女の得意は筋読みです。事案があると、必ず前後の展開を筋読みします。 これがまた良く当たるのですよ。 私にはない才能です。先入観を持たないようにと時々心配になるものの、つまりは特技です。今回もすっかり私は筋読みされました。確かに、私は元気を回復しましたが、どこかでボーっとしている。現実感が希薄なままでした。それが彼女の電話でカツが入りました。

遠い昔を思い出しました。小学校低学年のころ、100点取った時のこと。母親にじっと見つめられて「・・・どうしたの?」と心配されたこと。そのくらいいつも点数が悪かった。60点以下だと家の庭の隅にあった貯水槽に沈めていたくらいだもの。ドキドキしながら石を包んで沈めるの。あるときテスト用紙が浮いてきてしまい、見つかって叱られたなあ。叱る母の悲しげな背中を見て勉強しようと決めたのだっけ。高学年になってようやくがむしゃらに勉強を始めたから、その背中がカツだったんでしょう。

「節句働き」、「病み上がり働き」はやめて、もっと健康なときにも怠けず働こうと、思いましたよ。ありがとう。

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2009年11月10日 (火)
何気なくしていたこと

風邪を心配してくださったコメント、ありがとうございました。大げさなのですが、今日は社会復帰した気分を少し味わいました。

病みあがりつつある私は夕日を見た後、ちょっと外出してみようと思い立ち、サイドテーブルの上の腕時計に手を伸ばしました。外出するときは必ず時計を着ける習慣です。時計は止まっていました。それもそのはず、時計は自動巻きです。二日も放置していれば止まってしまうのです。このちょっとした見慣れない非日常に僅かなショックを受けました。部屋の壁掛け時計をにらみながら、久しぶりに腕時計の針を動かして正位置に。そして時計が加わった左腕を振りました。 おや、この気分、ちょっとした社会復帰の気分だわ。

何げなくしていることが何気なくできるようになること、この大切さを少しだけ知って、ご近所を少しだけ歩いてきました。

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結婚詐欺考

最近マスコミをにぎわしている二人の女結婚詐欺師の話には、心底驚かされます。お金が目的の殺人は最低です。「詐欺はいけないが、殺人は絶対にいけない」と考えると、彼女らが殺人しないで済ませ逃げられなかったことが残念です。せめて詐欺でとどめて逃げてほしかったなあと。詐欺して逃げている人なんてたくさんいます。詐欺してよいわけではないけれど、こんなところでも「縁の切り方のまずさ」を思わないわけにはいられないのです。詐欺師の言ったことと聞きましたが、縁を作るよりも縁を切るほうが難しいそうです。そのための数々の手立てがあるとのことで、「親の介護をしないといけなくなった」「金がいよいよなくなってしまった」「性的な病気になった」などなど、自分と居ると良いことはないというメッセージや、もっと直裁的にはベットの中で無作法にもオナラをするとか、さまざまあるそうです。

ストーカーから逃れるために、私のことろでもこんなことがありました。ある男性がその容姿の美しさとお金もちということで好きでもない粘着質の女性に好かれて、トコトコン付きまとわれたときのことです。その男性は、私のアドバイスに素直に従い(!) 髪はぼうぼう、髭もだらしなく伸ばし、服装も思いきりダサくしました。さらに自分で演出したのは、靴下をばらばらに履く、時折うつろになって意味のないことを大声で話しだす、ということまで。彼女は私のところに駆け込んで、「あの人、最近変なんです」と。「いやあ、実は彼はストレスに弱い人だから、いったんそうなったら中々元に戻らないでしょうねえ。最近は親の仕事も手詰まりで、彼も必死で働かないといけなくなるでしようから、そのことも不安なんでしょうねえ。なんにも取りえはないし。」と私。彼女は「ええーっ 怖い。もうあの人がわたしに近づかないように、先生、お願いします」と。笑い話みたいなことでした。

とにかく、詐欺して殺すくらいなら逃げ方をもっと研究して上手に縁を切ってほしいと思います。あるいはいっそのこと結婚してしまえばよかったと思います。何やかやと理屈をつけて離婚できるのが今の世の中です。殺すことはないでしょう。あまりです。要するに詐欺師の風上にも置けない輩ということでしょう。

私が敬愛しているスエーデンボルグの言葉を思い出しました。「邪悪な人間は悪を有害なものとして避けもしよう。・・・悪を罪として避けることが信仰のしるしである。」 彼女らに殺人を罪として避けさせることなんて不可能なことでしょう。ましてや詐欺を。でも、自分だって殺人犯として処罰されるのです。殺人は自分にも有害なものとして理解し、避けてほしかったわ。

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救われるパートナー

私の仕事のパートナーは元刑事です。一緒に仕事を始めた頃は、あまりに物事の見方が違うので、びっくりしました。そのひとつが、私が絶対冤罪だと信じている事件に対して、「犯人だよ」と断言したことでした。そして、その理由は元刑事でなければ気がつかないというものであり、どちらが正しいという議論を忘れるほど感心した記憶があります。

さて、この人は当会の理事長ですが、警備会社の社長をしながら当会の仕事をしてくれています。警察にお願いするときなどのポイントをいろいろ伝授してくれて、大助かりです。彼についてはいろいろブログに書きたい逸話がたくさんあるのですが、一言で言えば利他的な人情家です。しかし、シャイな性格ゆえ本人はいつも悪ぶっています。

一昨日、深夜に病院に連れて行ってくれたのも理事長でしたが、私はいつも深刻になる癖があり、このときも「遺書は玄関においてあるから・・・」なんて口走りしました。「あせらなくても死ぬときは死ぬんだ。心配しないこと」と、明るく笑ってくれたので、こちらも気が楽になったことです。

この理事長の口癖がふたつあります。「そんなもんだよ」と、「それがどうした」です。彼によれば、この二つの言葉で何でもすんでしまうそうです。カウンセラーとしては、唖然、呆然ですが、切羽詰るとこの言葉を頼りにしている私です。

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