2009年6月21日 (日)
犬の顔と老獣医

私の飼っている白いチワワが外耳炎になりました。以前もあったことなので直ぐに動物病院に電話してその日のうちに予約をいれました。予約時間の夕方まで、私はカウンセリングの仕事をしていましたが、そのうち病院のことをすっかり忘れてしまいました。

「さあ、何か食べるものを作ろう」と、台所に立ったのはもう夜でした。そして、いつものように台所に犬たちがやってきました。 私が台所に向かうたび、ご飯の時間が近いことを知り待ちきれなくてやってくるのです。

黒い両目を輝かせ、ピンクの舌を出し、短い尻尾をプルプル振っている白い犬の顔。 私は「ご飯、もうすぐだからねえ」と声をかけました。そのたとたんに 「あっ」 と息を詰まらせました。犬の顔が、「かあちゃん、ぼくを動物病院に連れて行ってくれないの?」と語っているように見えたのです。「ごめん!」と犬に謝ったけど、あーあ、忘れっぽくなった自分にがっかり。年をとったのねえ・・・。

動物病院に電話して、「すっかり忘れてしまいました。申し訳ありません。」と謝りました。電話を受けた85歳の主治医は、「あはは、そうですか。じゃあ、明日。」と楽しげに答え、電話を切ってくれました。

この先生、もう60年以上も獣医をなさっているのです。いろいろな獣医に私はかかりましたが、こんな名医はいないと尊敬しています。狭くて、設備はレントゲン以外に何にもない病院ですが、ドアを開ければ犬たちも喜んで入ってゆくのです。それまでは、どんな動物病院でも近づけば察知してすぐに帰ろうとむずがっていたのに。先生は、窓際の隅にある大きな背もたれの肘掛椅子に深々と座り、タバコを燻らせながら、病室に入ってくるメタボの白犬の体重の増減を一目で言い当てます。この上ない柔和さと、厳粛な仕儀で犬たちを診てくれます。関節をいためた時においては、すっと触ってさっと治してくれました。 ゆっくりとした動作なのに無駄のない動きで診療は直ぐに終わってしまいます。経験が詰まっている先生のずんぐりした体からは、何か「高み」というものが伝わってきます。一意専心に生きている先生、人生の終焉の日が訪れても自分が死んだことに気づかないかもしれない。そういう無心さ、悠々さ、先生は今、妙えなる生の境地にあって、きっと死さえも豊かなものであるに違いない・・・。

受話器を置いたら、年のことを嘆くなんて馬鹿だなあという気持ちになりました。そして、私も、もうあと35年仕事をしたら、こんなに優秀で、こんなに優しくて、こんなに明るいカウンセラーになれるのかなあと考えていました。 犬の体重のことで深刻になり、えさの調整ができないことで自己嫌悪になってしまう私を嬉しそうに見守ってくれる老医師は、私が一番素直になれる人。お会いするのがとても幸せで、いそいそ、ありがたく通っているのです。

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2009年6月16日 (火)
女優

「刺青」という映画をDVDで観ました。若き若尾文子が主演です。谷崎潤一郎の作品をイメージしてお店から借りたのですが、まったく違うお話でした。若尾文子、色気が溢れていました。私の知る彼女のイメージは、高貴、豪華な女優といったものでしたが、この映画では江戸時代の大店の娘なのに奉公人に恋して駆け落ちする役柄です。

背徳に怯える奉公人を横目に、余裕を見せて自堕落な時間を楽しむ姿、これが若尾文子なんだとびっくりします。悪人にだまされ、奉公人と生き別れ芸者に売られますが、まったくじたばたしないで腹をくくったかのように「芸者だよ。男をだまして何ぼなんだよ」と達者に生きます。背中には蜘蛛の刺青を入れられ、いつしか魔力を持った悪女となり、何人もの男をひきつけてしまいますが、男なんて突き放して当然と嘯きながら、洒落た一軒家で棲息します。(かわいい子供の女中が健気) そんな悪女になった若尾なのに、奉公人が人殺しを重ねて戻ってきたときの可愛らしさには、心底その純真さに感じ入ります。目に涙をいっぱいためてしがみつきます。

展開は、若尾は自分をだました悪人を殺す一方、奉公人をかくまい、一生、自分の甲斐性で食べさせてゆこうと決心しますが、佐藤慶(私は大ファンです)扮する旗本に恋してしまいます。でも、これは仕方ないと思いました。何しろ、この旗本はすごく素敵なんですよ。自分をだました若尾に向かって、「金なんてけちなことを言わないで俺の寝首をかいたらどうだ。どうせ男と女は殺し合い。おい、俺はお前に参っているんだ。愚図ぐず言わないで俺のものになれ!」と、言います。名台詞ではないですか! 若尾は、「惚れました」と潔く体を任せますが、こんな風に言われて惚れない女なんて居るのかしら?

若尾が朝帰りの道を歩く姿は、芯から惚れた男に抱かれて帰った経験がないと演じられるものではない、その湯気立つような風情は出てこない、と感じさせられるものでした。 私にはこの映画で一番印象的な場面でした。 こんな姿で帰ってこられた奉公人は、とても耐えられませんでした。積もっていた嫉妬、狂気が一気に噴出し、若尾を殺そうとします。結末は、若尾が奉公人を殺し、それを家の外から見ていた彫師が若尾の背中を刺して、殺してしまうというものでした。

私は分かりました。女優は、演じているときに本当の姿が現れ出るもので、演じていないときこそ自分を作って(演じて)いるのだと。テレビでインタビューに答えるなどする高貴な若尾文子は、実は彼女の演技なのだと。本当の彼女を見たければ彼女の作品を観ればよいのだと。 

「人が居るのではない、仕事があるだけだ」という言葉があります。私はこの言葉からは「人格」が軽視されている印象を受けていたのですが、映画を見てから印象が変わりました。 人の「特性」(人格よりも、より本質的なその人そのもの)というものは、仕事の場面においてこそ隠しようもなく現れ出るものだと言っているように感じるのです。人格よりも特性が現れるような仕事ぶりには、美、アートがあると言ってもおかしくないのではないかと考えてみました。それがどんな仕事であっても、です。

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2009年6月15日 (月)
思春期の女性たちの相談1

私のところには、思春期を迎えたばかりの女性たちも相談にこられます。 彼女たちは自分が汚い人間ではないかと、罪深いのではないかと、愛すべき尊敬すべき相談をしてきます。そういう時、比喩は嫌いな私ですが、良くある木の喩えを使って話をします。

「幹と枝が高く伸びている木は、自分を支えるために根っこも地中深く伸びています。あなたの倫理観、美意識などの顕在意識、良い言動を高い幹と枝だと喩えれば、それらが伸びれば伸びるほど、根っこであるあなたの潜在意識、・・競争意識、排他性、その他もろもろの我の強さ・・も伸びてゆくでしょう。(本当はそれらを意識する力が成長するだけなのですが) 自然なことです。」

私がこういうと、「あなたは本当は善意の人よ」と言ってほしかった女性なら、びくっとします。 

私は続けます。

「受け入れたくない自意識というものは、表面に出すか出さないか意思次第でどうにでもなるものだから、あるかないかなどというのは問題ではないのよ。 自分の悪意を意識した時は、評価などしないでただ眺めていれば良いのよ。自意識の弱い人は良いこともする力も少ない人よ。まずは自分にパワーがあるかどうかが大事。次に自分が何を意図しているかどうかが大事。でも、あなたは自分にも他人にも幸せを願うという善意の気持ちを伸ばしてねえ。善意を意図して行いをしてねえ。そして、その行いが実を結ぶには根っこの力も必要なんだということを、いつも知っていてね。」

・・・実は、その潜在意識がどれほど顕在意識と行動に影響を与えるものか、これに取り組むことは心理療法の大きなテーマです。 しかし、まずは自分の潜在意識を憎まないこと、戦わないこと、知ること、眺めることから出発です。探求は始まったばかりといえるでしょう。

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私流のカウンセリング2

救いとは「心の方向転換」のことを指します。心を転換させるための働きかけが、カウンセリングにおける指示です。じっくり話し合って気持ちを徐々に転換させることも可能でしょうが、私の場合はそういう時間がないことがとても多い。その状況は以下のように喩えられるでしょう。 

・・・家の中で二人の子供が遊んでいる。大人は居ない。だんだんと喧嘩が始まる。一人は強くて一人は弱い。強い子は弱い子をいじめるのが面白くてたまらない。弱い子は家から外に出て逃げたいと思っているが、相手は離してくれない。弱い子はこづきまわされて泣くばかりだ。そんな様子を通りがかった大人が家の外から目にする。大人は助けようと思い玄関を叩くが閉まっている。大人は窓の外から声をかけるしかできない。

こんなとき、あなたならどうやって弱い子を助けますか? 「窓の近くにおいで。そして私の話を聞くんだよ。君のしていることはいけないことだよ。警察に捕まるよ。」と話しかけるでしょうか? いじめを遊びと思って夢中になっている子供には理解できない。「おじさん、僕は遊んでいるだけなんだよ。」と平気です。

私ならこう言います。「おばさんは今、とっても珍しいおもちゃを持っているよ。見たいかい? 見たかったら出ておいで。」 子供は考えます。いじめるより面白いかもしれない。「本当に面白い?」 「もちろんよ。一緒に遊ぼうねえ。」 子供は走って家から出てきます。

ウソといえばウソ。でも、何が優先されるべきでしょう? カウンセラーとしての私のコミットメントは、「被害者の救済」。 それは何を差し置いても優先されるべきものです。 ウソは悪い。でも、被害を放置する緩慢さはもっと悪いと私は考えます。もしも、学校のいじめがなくならないのが、介入すべき先生の安っぽい倫理観、事なかれ主義、責任をとることへの恐怖症からきているのでしたら、人を救うことに対する覚悟が足らないと私は言います。

そして、人を救うとは被害者の救済はもちろんのこと、加害者の心の転換のことでもあります。介入者は、加害者が加害行為をやめるという心の転換が可能となるあらゆる工夫、時にはウソも、必要です。 私のコミットメントのもうひとつは、「加害者の再犯の防止」です。家から出てきた子供には、時間をかけて、恨まれながらもカウンセリングを始めます。

NPOやNGOのほとんどは、その活動内容は誰が見ても正しいことと決まっています。でも、私の場合は、ほかから見れば白と黒のはっきりしないことをしているように見える。最終的な解決までは、時に黒いこともしないとならないからです (言うまでもありませんが違法行為は論外です)。加害者のカウンセリングをしているとき、被害者の悪口に頷いたり共感を示すことも方便としてはあります。そういうことをしている私の実感ですが、悪いことができる人は良いこともできる。その逆もあり。

心理療法は成長と成熟のためのものだけど、大人であるとは、いったいどういうことかと考えます。 私は、評価が定まらないことの中に身を置きながら何事かをするのは、大人でなければできないことだと考えます。白と黒のはっきりする世界で、白のことだけするのであれば子供でもできます。 目的が良ければ何をしても良いとは考えませんが、私の場合は、大きな人権が損なわれているとき、時に小さな人権や道徳を犠牲にすることを覚悟すること、これは私流カウンセリングであり、それを非難されてもぶれないこと、言い訳しないことは私流大人のあり様です。・・・実は私は非難されることにすごく弱い、気の小さい人間なので、グレーの中に日々居ると本当に修行できます。

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2009年6月 1日 (月)
私流のカウンセリング1

非指示のカウンセリング、寄り添って聞いて受容するカウンセリングが正しくて、アドバイスや指示などの働きかけはすべきでないとする考えがあります。しかし、私の場合はそんなことをしている場合じゃないということがとても多い。 苦しみながらも自分の症状に依存し張り付いている人のカウンセリングでは、その症状が反社会的行為である場合があります。 ( リストカット、ストーカー、盗癖、飲酒、暴力、さまざまな反社会的行為を私はカウンセラーなので症状としてみます。)

最近も、ある相談者が盗みを働きました。その人は、「気がついたら盗んでしまうのです。とめられないのです。とめるにはどうしたらよいのですか?」と相談してきました。

盗みにしろ、飲酒にしろ、ストーカーにしろ、暴力にしろ、各種の症状に張りついているのにはそれなりの理由があるのは確かです。私の仕事はその症状から離れさせることですが、症状に張り付く理由があるからこそ、症状から離れるのには抵抗があります。しかし被害者のことを考えれば、その理由と抵抗にのんびりと付き合っている余裕はありません。カウンセリングの原則は非指示だとする意見に背を向けて、私はさっさと働きかけをします。

カウンセリングの場面で行われる働きかけとはどのようなものか? 

「人は、恐怖心によって行動する。」 夏休みの宿題をするのは決まって8月31日だった私には納得できる実相です。つまり、症状に張り付いてはいられないほどの強い働きかけをクライアントに向けることが時には必要なのです。それが指示です。しかし、この場合指示とは具体的に「何々せよ」というような強制のことではありません。「方向付けをする」と言えば分かりやすいでしょう。まさに指し示すだけ。ただし、相手がその指示する方向に心を転換できるような指示の仕方でないと。当たり前で安全なだけのアドバイスには意味がありません。そこにはアイディア、工夫、想像力が必要です。・・北風 ( カウンセラー ) がどんなに強く吹いても ( 指示しても )、 旅人は ( 相談者は ) コートを脱がせられない ( 症状を脱ぎ捨てはしない )・・ というのは、たとえどおりの真実ですから。 私は、相談者がその方向にしか進まないような、または進みたくなるような意味づけを、言葉と行動によって現実に加えます。心の転換が可能となる脈絡を設計し、構築します。( これは冷や汗が出るほど難しいことです )

症状から離れる力を持っているのは、その人です。その人だけです。ほかの人が無理やり引き離すなんてことはできないのです。私は、すべての人は自分の症状から離れる力があると信じています。ですので、私は言います。「盗む人のカウンセリングはしません。カウンセリングを受けたいなら、三日間盗まないで来てください。」 それで来なくなる人もいます。その場合の対応方法はいつかお話します。来られた人には「あら、盗まないでいられるではないですか。」と指摘をします。

「ストーキングをやめられないのですね。でも、やめなければ、何が起きるか分かりますね。私が被害者に告訴するように意見します。だからあなたは留置所に入ってください。拘置所、刑務所まで行っていただいても結構です。私があなたの骨まで拾いましょう。」と言います。結果、拘置所まで面会に行くこともあれば、希望してくれれば刑務所から出た後もさまざまな問題を共有し、付き合います。 しかし、その言葉でやめることができる人もいます。「ではやめます。でも、その代わりに、小早川さんには私の気持ちを彼(彼女)に伝える窓口になってほしい。」と頼まれたら、心理療法の始まりです。そこでは、受容と傾聴によるカウンセリングをたっぷりと、そして可能であれば心理療法を行います。

盗むよりも、ストーカーするよりも、そんな症状に依存して生きるよりも、さわやかな生き方があること、できることに目が覚めること、その機会を作ることは私の仕事のひとつなのです。

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2009年5月10日 (日)
孤独考

ずっと以前、「孤独を感じたときは、せめて孤立をしないようにしましょう」と、私は言いました。「孤独になる瞬間は山ほどあります。一例としては夫に愛されていないと気づくとき。夫から嫌われて孤独になって泣いてしまっても、まだ重要人物としてのパワーを自分に感じている間は孤立感はありません。夫と同じ人生に共存しています (相手の女性も含めてですが・・)。」と。本当に人は孤独に弱いものです。一人ぼっち。誰も私をわかってくれない。こういう相談はとても多いです。以下は、私から若い女性に贈る手紙です。

・・・・あなたは問いましたね。 「人は孤独なんでしよう? じゃあ私は何があっても、実際誰かに抱かれても、実は一人じゃないのですか。」

そうなんですよ。本当は誰に抱かれても、誰と暮らしても、孤独を忘れるだけで本当は孤独なんです。孤独は寂しすぎて痛すぎるから、その現実を見ないように人はツイタテを立てるのです。とりあえず自分を尊敬してくれたり褒めてくれる人が居れば、恋人が居れば、抱いてくれれば、結婚すれば、仕事があれば、ギャンブルできれば、酒があれば・・・それらは孤独を隠すツイタテです。 そのツイタテが時々、何かの拍子でふっと倒れてしまうのです。恐ろしいことです。

意識とは、本来、苦痛のもがきだと以前いいました。快感を求めて行動するとう「快感原則」も、それとて実は外界からの苦痛な刺激を減らしたいという欲求を含むものであり、それは無機質になる願望(引きこもり願望、最終的には死への願望)につながってゆきます。また、苦痛な外界刺激そのものを抹殺しようとする攻撃願望となります。「性本能」に固執したフロイトも、晩年では「死と攻撃の本能」が人間にはあると見つけましたね。

孤独とは、「死と攻撃の本能」を意識するときに起こる心理だと私は考えます。この本能を誰かと一緒に共有することは原則的に不可能で、だから人は孤独なのです。例外的に見える複数人による同時自殺行為においても、死の直前まで孤独に怯えている心理であって、結局孤独が共有され癒されているわけではないのです。動物と違って自意識がある人間は、どこまでいっても「私の気持ちの奥底は、誰もわからない」孤独な存在です。

親が子供を生み出したとき、「せっかく生まれたのだから、この子は死からの誘惑に負けずに生きてほしい。せめて私が育てている間は、飢えさせず、たくさんかわいがり、死というものを感じさせないようにしよう。なるべく幸せであらせよう。」と心に決めるでしょう。そしてそのとおりに、いとおしみながら抱きしめながら育てると、自然と子供に「死と攻撃の本能」への耐性ができてゆくと私は推量します。それが、「この子は皆に助けてもらう必要がある。だから人に迷惑をかけない人間にしなくてはならない。最低人並みに生きられるように育てねば。」との思いで神経質に厳しく育てると、「こうあるべき」の子供ができてしまう。当然その子は、あるとき「こうあるべき」でない自分を見出し、自罰意識を持つようになります。

こういう自己肯定感の低いタイプは常に自分を責めるから、自分自身が苦痛な刺激となり攻撃対象になります。「死と攻撃の本能」の誘惑に負けやすい人間です。自分を守るためにツイタテをたくさん求め用意しますが、しかし自罰的攻撃欲求に負けてそのツイタテを自分から倒してしまうという矛盾を始めます。私は、中間のタイプです。自己肯定感はある程度、低い。昔は、やたらに苦しんでいました。苦しみを求めていたのです。自罰して安心するために。今は少し回復して、最低限の苦しみだけでよいと願えるようになりました。

お母様が、昔、あなたを抱きしめなかったとしたら、あなたの耐性は弱く、誰かに抱かれたいと、また一緒に暮らしたいと、むやみに願うでしょう。そして、多くの人がそうなのです。一人ぼっちはいやなのですね。でも、孤独は本当はもっと積極的なものなのです。何かの「欠乏、欠損、不足、」などではなく、「死と攻撃の本能」そのものと言えるのです。何かで補っても、補っても、この本能は消えるものではないのです。だからこそ、耐性が大事になります。親は子供がまだ小さく催眠状態のときに、魔の手から護るがごとく、しっかりと抱きしめ、「死と攻撃の本能」に耐える力を子供に注ぎ込み、授けないとならないのです。これは初乳と同じと私はイメージします。

いずれにしても、子供の苦しみは本当のところは親にも分からない。だけど、子供の孤独には関心を持つべきです。生まれたときから、そして、親である限りのちのちまでも。親は、愛ある目撃者でいるべきです。目をつぶらない。これが親に言いたいことです。

あなたには、戦うべき孤独の本質を理解し、早く力をつけてほしいです。相手(孤独)は絶大な力をもっているのだから、助けあえる人とともに戦うことです。人は相手の孤独を通して自分の孤独を知り、自分の耐性を強めることもできる。敵は、実はすごいものなんですよ。

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2009年5月 7日 (木)
原因と探求

日本の連休が終わりました。私のブログも長く連休しました。申し訳ありません。

連休した原因を考えましたが、チェーホフを読んだことが結構大きかったと思っています。 『イオーヌイチ』という短編です。そこに出てくる一人の婦人には、自宅を訪れる人に自分の小説を読んで聞かせるという趣味があります。初めてその家を訪れた主人公の漏らした呟きがショツクでした。

・・・「無能だというのは、小説を書けない人のことではなく、書いてもそのことを隠せない人のことだ」

まるで私のことです。 以来、ブログから遠ざかりました。何で私は自分のことばかり書いているのだろう・・・?と、恥ずかしく、分からなくなってしまったのです。 私は読むことが大好きですが、そういえば人のブログは読んだことがありません。 何が書いてあるかわからないのに読む気はしないのです。 私には関係ないことが書いてある気がしてしまうのです。 人の書いたものを読む気になるというのは、何か必要性を感じるからで、ネットで探して本を購入したり、本屋さんで不図、手に取るというのは、いわばおなかが空いて食べたいものを口にするのと似ています。 そのときの自分の問題意識、心の癒しがほしいとき、自分の考えを確かめたいとき、知らないけれど惹かれるものがあるとき、などなど。 

ちなみに、最近読んだ本で心が満たされ嬉しかったのは、内山節氏の『怯えの時代』(新潮選書)でした。氏は私より9歳年上。氏の著書『労働過程論ノート』を読んで、まだ学生だった私は衝撃を受けました。同じ世代でこんなに優れた頭脳の持ち主が居る!。そしてファンレターを書いて、以来、私は氏のファンなのです。その彼の最新著がこれ。世界的雇用環境の悪化と金融行き詰まりの原因を社会思想との関連において深く洞察し、解き明かしています。読んでいるうち、ずっと疑問に感じていた社会主義思想と社会主義体制のずれの原因について分ってしまうというオマケもありました。しかし、氏が見抜いているのは単に社会経済の行き詰まりのことだけではなく、現代に生きる人間が抱き始めた根源的な怯え、です。 「現代の人間は自由だけれど、自在じゃない」という言葉。見事。言い当てていると感じました。私は、今、勝小吉の『夢酔独言』を読んでいますが、階級制度の不自由な江戸時代になんと自在に小吉は生きたことか、その言葉から思いおこされました。 サブタイトルが「誰も勝ち残れない」という暗いテーマの本なのですが、人間とだけではない「自然との連帯」や、冷たいお金ではない「温かいお金」という言葉に引き寄せられてゆく、新しい可能性を感じる、読後感は明るいです。

原因を探求しなければ、新しい始まりはない。未来はすべて過去を含むからです。原因探求しない始まりとは、過去なしの未来で、それは実は過去の始まり。 同じことの繰り返しという呪縛から逃げられない。 馴れ合いと反復が人間の大きな行動原理だから。 原因探求の過程から新しい始まりの芽は出ます。 探求は自在であることの手法です。結論はありません。だから、何度でもできます。 いつでも、どこでも探求の出発点は設定できます。 私が本を手に取るとき、それは探求の始まりなのです。 カウンセリングルームにこられるとき、人はみな、自分の過去の探求をはじめます。 思いつきの夢やビジョンなんてなくても、(むしろないほうが)、真摯な探求の態度、生きることへの敬虔な思いがあれば、人は未来に抱かれることができることを私はずっと見てきました。

私のブログを読んでくださる方も、私には思いもよらぬ原因があってのことでしょう。書いたものを隠す能力は低く、世の中に申し訳ないけれど、また少しずつ、書いてゆくつもりです。理由は? まだわかりません。探求します。

  

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2009年2月 4日 (水)
万物は流転する2

雌雄の話の続きです。500万年後に男性染色体がなくなるのを止める技術ができたとしても、やはり私にはショックであることに変わりはありません。雌雄を存続させるか否かという選択がありうるとしたら、そのこと自体が人間にとって雌雄の存在が選びうるもの、相対的なものとなってしまうのですからねえ。

でも、もしそういう選択ができるとしたら、500万年後の人類は異性の存在と異性であるという在り方を捨てないだろうなあ、少なくとも私は捨てないだろうと夢想しました。私は性的存在であることが好きなのですね。そう気づくと、今まだ雌雄がある時代を生きていても、自分が女性であることに意識的に責任を持つのだという気分に目覚めます。アダムとイブが禁断のりんごの実(知識)を食べてしまった時も、こんな気分だったのかも。

こういう自覚って、いつか東京に大地震が来ることを予感して生きている東京人と、半永久的に地震は来ないと信じて生きているロンドンっ子との意識の違いに似ていますし、早く母に死なれた私が人はいつ死んでもおかしくないと思いながら生きてきたために、妙に刹那的で投げやりな雰囲気を身に着けてしまったということに似ている気がします。

人は気がついたら人生の只中にいます。そして要望もしなかったのに片方の性を与えられています。生も性も所与であり偶然にすぎないのですが、私は今回の番組を見て、自分が性的存在であることを再意識しました。そしてそのことに責任を持とうという気分になりました。私の生と性は私が選択したもので必然なのだと。 宿命は、それを知った時から背負うことになります。 人類は、いつの日か自分たちが性的存在であり続けるのか止めるのか選択しなくてはならないとういう宿命があることを知ってしまいました。知ってしまうということは人の意識を変えてしまう、人の意識に跳ね返ってくるものだということを今回も考えさせられました。

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法律よりも命が大事

昨年、4月18日、江東区のマンションで犯人の二軒隣に住む会社員の女性が殺され、体をばらばらにされトイレに流されました。世間では猟奇的な面と裁判員制度との関連で話題になっていますが、私にはこの女性が助からなかったことが何よりも問題です。彼女が助からなかったのは警察官が法律どおりの行動をしたことが原因でした。警察官は捜索令状がないために、まだ被害者が生きているというときに犯人である可能性が高い人物の部屋の中に踏み込まなかったのです。

国家の目的も法律の目的も大原則は国民の命を守ることにあります。法律のために法律があるわけではありません。 この事件の概要は改めてお話しするまでもありませんが、以下のようなものでした。・・・被害者が監禁されたのは午後7時30分。いなくなった妹のことを姉が110番通報したのは9時16分。警察官は9時27分から捜査に着手し、監視カメラを調べ、被害者がマンションに入ったままで出ていっていないことを確認しました。したがってマンション内に被害者がいるはすであることから、各部屋を回って聞き込み調査を開始しました。犯人の部屋も訪問しました。このとき、被害者は犯人の部屋の中で縛られてまだ生きていました。犯人は犯行の発覚を恐れ、警察官が帰った後の午後11時ごろ、被害者の首に包丁を刺し、殺害しました。そして37日後に逮捕されました。

37日も経って・・・。法律の専門家やメディアは警察は法律を守って捜査をしたのだから問題はないとしています。 「被害者の命を守れなかった」ということについて、どうしてもっと強く疑問をもたないのでしょうか?  命を守るためにはどうすべきであったのか、この悲惨な現実、起きていたこと、今後も得起きるであろう事について検証、検討をすべきです。

私は、もし自分の愛する人がこのような状況でいなくなったら、このマンションのすべての部屋に踏み込みます。違法行為であっても、逮捕されるのを覚悟で捜索します。その気持ちで行動する刑事が現場に一人でもいたら、彼女は死にませんでした。アメリカでは、マフィアの取り締まりなどにおいて緊急の場合は令状なしでも捜索ができる法律があると聞きます。後刻、令状は請求すればよくて、これは緊急逮捕と同様です。もしアメリカでこの事件が発生していたら被害者は命を救われたことになります。

「令状がなければ捜索を拒否できる」という小さい人権を守るための法律は、時に制限されるべきです。それよりももっと大きい人権、人の命を守るために、場合によっては「令状なしでも捜索を拒否できない」という法律も用意すべきと考えます。しかし、法律は万能ではありません。人として生きるとき、法律論よりも正論、適法よりも適正、人権よりも命が大事という判断が必要となる場面や局面は必ずあるはずです。

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万物は流転する

「万物は流転する」というヘラクレイトスの言葉には、私は当たり前じゃないのと考えてきました。でも、最近つくづくとこの言葉の重みを考えさせられることがありました。それは、NHKスペシャル「男と女」という番組を見てのことでした。

なんと、500万年後には人間の遺伝子から男性染色体がなくなるというのです。すると、人間は女だけになります。既にその兆候が出ているし、外国の動物園ではメスだけ飼育していたらオスなしで妊娠した例まで起きました。

生命は雌雄を分けることで組み合わせの多様性を確保し、病気などに強い遺伝子を残す道を選択したと聞いてきましたので、私は雌雄の別は絶対的なものだと思い込んでいました。だから、この番組はミトコンドリアがいなかったら地球に生命はなかったと教えられたとき以来のショックでした。

命や地球が本当は必然の産物ではなかったのだとしても、せめて雌雄くらいは変わらぬ生命維持の様式であってほしかったです。地球や種が絶えれば人類は死んでしまうのだから、そのときは何も考えなくてよいでしょうが、雌雄がなくなっても人類は生きてゆかねばならないのです。雌雄がなくなったら、一体どのように人生観を持って生きたらよいのでしょう?  恋愛がない、結婚がない、それに伴い文学も、恋愛心理学も、倫理も、思想も、なくなる!

大変だって思ったときに、「万物は流転する」という言葉が頭の周りをぐるぐると回り出しました。万物とは本当に万物だったのですねえ。雌雄もその中のひとつだった。人間は、雌雄のあった時代をリセットし、全く新しい倫理観、人生観、世界観、社会生活を作ることになるのです。絶対なんてものはひとつもないのです。「すべては相対的なんですなあ」という『罪と罰』の中にでてくるポルフィーリィの言葉がぐるぐる回ります。あの時代も旧制ロシアが崩壊し始めてすべてが懐疑色に彩られていたはずだけど、こんな番組を見た人間が抱く懐疑よりはまだましだったはずですよ。

500万年後は突然来るのではありません。人間はそれを知ってしまったのですから、もう意識の変化は始まってしまったといえます。普通に語られてきた「あなたを永遠に愛します」という言葉も、男女関係という前提そのものが相対的だと分ってしまえば懐疑と色あせが生じるようです。そんなことは雌雄のある時代の時代意識の産物にすぎず、単なる甘い望みじゃないのと。ネガティブが証拠を持つようなものです。現実においても変化は始まっています。むしろ意識よりもこちらの変化のほうが早いかもしれません。いろんな家族形態、たとえば同性同士の結婚が増えてきたし、子どもだって早晩クローンででき始めるかもしれません。

男女間で恋愛ができなくなったら、人間には親子愛や師弟愛、だけが残されるのかしら。それとも同性間で恋愛感情を持つのが普通のことになるのかなあ・・・。何でもいいから恋愛という感情は存続してほしいです。そうです。人間は恋愛という素晴らしい感情を捨てやしないでしょう。まだ希望はあります。その証拠は父親という存在です。

「この子は自分の精子からできている」って想像するだけで父親は子に愛の感情を持つのです。常々私は父性というものを疑ってきたのですが、カウンセリングをしていてそれが本当に母性と同じようにあることを今ではちゃんと理解しました。産んだ実感なんてなくても、あるいは本当は違う男性の精子であっても、そうだと想うだけで、イメージするだけで人間は愛が持てるのだと。また、NHKの番組では、両性で子どもを育てる方法を取る人間の遺伝子には、子育て中の3年間だけは恋愛感情が継続できる可能期間として定められているのではないかとも言っていました。でも、なら、にも関わらず人間は人によっては終生愛し合っているということが私には大変な希望になります。

「自然に対する人間の勝利を!」  なんだかルソーと同じような気分になります。性欲という自然感情から生まれでた恋愛感情は、継続するという意思を持ったとき最高のフィクションとなります。私のあがき、未練かもしれませんが、雌雄がなくなって性欲がなくなってしまっても、恋愛感情は失わず継続してほしいです。どうしたらよいのでしょうねえ。 これは、既に愛が冷めてしまっても、また愛を燃え立たせる男女の努力と同じ努力なのかもしれません。そこにはよほど豊かなイメージ力が必要になる、でしょう。

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