感情の処理をする際に、相手がしてくれなければ困ることがあります。たとえば貸したものを約束どおりに返してくれなかったり、傷つけたりされたら基本的に感情は悪化します。イライラしたり、心配したり、気になります。
そんなときは一人で悶々としないで、「返してください」とお願いしましょう。言い出しにくいことは生きていれば沢山ありますが、「お金を返してほしい」と言うことは、なかなか言いにくいもののひとつです。だからそれができるだけでも、自分を尊敬できます。
それでも返してくれないときは、①あきらめる。②請求だけはし続ける。③金額によっては法的対処を講じる。のどれかを選択しないとなりません。
①を選択した人は、あきらめるための自分への説得が軍配を上げているといえます。感情の処理を知らずのうちにしてしまっているのです。「あんな人に貸した私が馬鹿だった。」とか、「後世の功徳になるわ」とか、「もう二度と借りにはこないだろう」とか、気が楽になるためなら、どんなストーリーでも人は考えるものです。人間ってよくできています。この能力は大切にしないと。・・・あらかじめ処理している人がいますね。「返ってこなくても仕方ないなあ・・」と思って貸す人です。
③の選択も、結局は自分の感情処理のために行なっているといえます。「解決とみなす」感情処理は、昔なら長老の決定を仰ぐということもあったでしょうが、現在では法的決着が一番良いです ( もっとも濫訴はいけません )。 たとえば全額が戻ってこなくても、できることまではやったという解決の安心感が得られます。
問題となるのは②です。請求し続けるということは、相手が債務を無視し続けることですから、さらに感情が悪化します。ですのでさっさと③に移行するのが正しいのです。そのまま請求しつづけていると、請求の仕方しだいでは、たとえば暴言を吐いたりお家に押し入ったりしてしまうと、相手を怖がらせて、こちらが違法行為になってしまうこともあります。やるなら感情を「棚上げ」にして、冷静に行なわないといけません。
「許す」は「あきらめる」分野の問題です。
肉体的、精神的被害にあえば、加害者に当然謝罪と弁償を要求できます。謝ってほしい、弁償してほしいという感情は自然のものです。たとえば婚約者が、ほかの女性と交際を始めたために不履行の被害にあったと想像してみてください。「もう一度戻ってほしい」とか、「“心から”謝ってほしい」とか、「心のケアを恋人ができるまでしろ」とか・・・そんな要求をしたくなるのも理解はできます。しかし、それは無意味ですし、間違っています。どんなに苦しくても、自分の感情は自分で処理すると覚悟し、決めることです。既に相手はいなくなっており、自分は孤独だからです。自分を助けられるのは自分だけだからです。冷静に孤独に、謝罪と弁償を要求できる権利を行使するのみです。
これは大変難しいことです。私は恋人に振られたとき、まっしぐらに走って鏡を見ました。そして、「あなた、この状況に耐えられる?」と聞きました。鏡の中の私は「いいえ。無理」と答えました。そして私はストーカーになったのです。そのとき、誰かが「それでも自分で自分の感情処理をすると決めなさい。孤独に耐えるのだよ。私が支えるから。」と言ってくれたら、違っていたかもしれません。私は、自分には孤独に耐える力がないとあきらめたのです。③は到底無理、①もできない、だから、ありもしない債権なのに請求し続けた②のです。②も③もできないし、しないほうがましな場合は、①に取り組むしかないのです。①をできない自分をできる自分に変容させるしか生きる道はないのです。私は、ずっと後でしたが、幸運にもそのことに気づいて、救われました。
論外ですが、時々、感情処理のためにために、復讐屋に相手を困らせる依頼をしたり、自分で匿名の小さい復讐をしたり ( たとえば誹謗中傷のメールを送る、うわさする、ネットに書き込みをする、自宅に汚いものを送りつける、意地悪な態度を取る ) などして憂さを晴らす人がいますが、不埒なことです。これは完全にハラスメントです。
自分で感情処理をすると決めることは本当に難しいことですが・・・することです。そして次にどのように感情処理したら良いのかを考えます。やはり①か③の選択、あきらめるか、慰謝料請求の訴訟を起こすかの選択をします。(慰謝料請求の構成要件は、故意、過失、違法性、実損なので、訴訟するなら準備が必要。) ②の請求をし続けても、再度結婚するということには実際問題としてなりませんから、しないほうが良いです。感情はさらに悪化します。
私はカウンセリングをしていて感じてきたことがあります。「自分自身が」あきらめないと、「人を」許せないということです。「あきらめた」と言いつつ相手を許さない人が沢山います。「私はせっかくあきらめたのだもの、あなたはもっと私に感謝しろ。」とか・・・。これは常識的に状況をあきらめているだけで、「本当の事」を自分自身があきらめているのではありません。
「本当のこと」をあきらめられないから相手を許せないのです。この結婚はもう無理だと観念しているのに、「本当のこと」、この結婚をあきらめられない何かが自分の心にはある、何が自分の心にあるのだろう?・・・あきらめられないのは社会的地位かな、経済的安定かな、彼の笑顔かな、彼には私しかいないという情かな、捨てられるということが怖いのかな、とにかく怒りかな、・・・これら未完了の感情、思いをあきらかにし、潔く捨てる、がセラピーの分野での感情の処理になってゆきます。
たいていの人は、ひど過ぎる被害でなければ常識的にあきらめます。時がたてば忘れるだろうと思っていますし、確かに記憶は薄れてゆきます。でも、なくなるわけではありません。何かをあきらめなくてはならないとき、それをチャンスと捉えてセラピーで自分を明らかにしてゆくことは、贅沢なことだと言えます。そして、それをする人は強いとも言えます。
セラピーで行なう感情処理は沢山あります。その程度、深さはそれぞれに異なります。
EX1・・・入試に落ちた。その大学やその会社に入るのはあきらめたのに、自分にその大学や会社にふさわしい学力や力がないということは受け入れられない、本当は自分はその大学、会社、階層にふさわしいはずだという思い、自己評価を、あきらめられない。こんな場合、人は大学や会社を、ひいては社会を恨みます。被害者意識が生まれます。再チャレンジするなら、一旦は自分の力不足を明らかにし、あるがままの自分を受け入れることが必要です。こんなはずはない、と思っていると成長はできません。
EX2・・・子がなかなか自立しない。思うような大人にならない。あの子のおかげで私たちは心配ばかりさせられている。苦しめられている。もっと自立した青年になってほしい・・・と嘆く親たち。そう言いつつも、子が自立するために必要な、「苦労する、失敗するチャンス」を過保護にも未然に防いでいたりします。子が苦労し、失敗する姿を見たくないからです。こういう親は、子に喜ばされる自分の姿や人生というものをあきらめられないのでは? 「あんなにかわいがり、一生懸命に育てたのですから。」との思い。
子のために一生苦労しても良いわと観念し、子に喜ばされるという人生を親があきらめたら、多くの子は自由になりそうです。子は、自分らしい希望を、素直に感じても望んでもよいとわかれば (許してもらえれば)、自然と親を喜ばせたいと思うものだと私は感じてきました。苦労したり、失敗したりしながらも、です。
EX3・・・大切にしていた犬を、ただ慰みのために故意に殺された。犬が死んだことを受け入れられない。あきらめられない。殺した相手も許さない。望みは復讐だけ。人は愛するものを傷つけられたとき、復讐することで感情処理をしたくなります。でも刀狩以降、われわれは復讐という手段を使えません。復讐の代わりの手段を探さないとなりません。それは法律に則り、しかと相手を告訴することです。
犬を殺された場合、刑法では器物損壊罪に過ぎないのですが、民事で戦って精神的慰謝料を取ることはできます。これほどまでの被害であれば、少なくとも「(法律による)みなしの解決」をしなければ、その先の本当の感情処理などまずありえません。(宗教家なら別かもしれませんが。) 「二度と同じ被害が起きないようにと願います。」とのフレーズだけでは、本心はまったく間尺にあわないはずです。
毅然として処罰と弁償を求める③ (繰り返しますが、これも自分の感情に自分で責任を取る方法です) → そして本当の感情処理をし、二度と戻ってはこないことを受け入れる、あきらめる① の順です。私なら、セラピーでは犬に訴訟の報告をするということをします。そして、思い切り泣いて犬と決別します。「一生一緒にいたかった・・・」 その気持ちにさよならをします。
自分のせいでなく、愛する人や犬を失ってしまった場合は、その喪失という状況さえ受け入れられるものではありません。さよならができたときに、初めて喪失は受け入れられます。
セラピーの分野での感情の処理は、「みなし」でもなければ「状況をあきらめる」ことでもありません。「それまでの自分を乗り越える、新たな境地の発見」 「正しい自己評価と自分にふさわしい希望の発見」 「自分は本当は何を望んだら良いのか・・の発見」です。
でもブログでは、セラピー以前に自分でもできる小さな感情の処理方法を、いくつかご紹介しないと。今回は先に行過ぎてしまいました。
続く。