2012年4月11日 (水)

いつも散歩に出かける小さな公園は、12本の桜の樹々がふち取りしているように立ち並び、枝を広く高く伸ばしています。
昨日まで満開だった花びらが、今日は小雨に濡れ ちらちらと舞落ちていました。他には誰もいない白い舞台のような地面に立つと、冷たい風が顔をかすめてゆきます。抱いた犬も目を細めました。「これが桜だよ。とっても綺麗だね。」私は犬に話しかけました。犬は無言のまま遠くを見ているようでした。

時が止まった、絵のような風景。 きっと世界は絵なんだろう。絵は、世界が絵だってことを教えてくれるものなのかもしれないと思いました。

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2012年3月26日 (月)
ありがたさ

先の記事にて未来さんからコメントを頂き安堵いたしました。お許しいただけたこと、尚かつ励ましていただいて、ありがたさにジーン。

やはりコメント下さったオリエンタルリリィさん、私の微々たる支えを今もって心にとどめていただいているなんて・・・ありがたさにジーン。

私は特筆するような才のあるカウンセラーではありません。もし、優秀なカウンセラーやセラピストが本腰で加害者と呼ばれる方たちのカウンセリングをされたら、どんなに多くの犯罪を未然に防げるだろうかと、よく思います。ネコ(すみません。ネコなんて描写は不謹慎ですが、ちょっと我慢してください)の首に鈴(福音の鈴)をつけにゆく係は、警察でも弁護士でもなくカウンセラーだと思っています。

鈴を持っていくと、時には引っかかれたり、噛みつかれたりします。私の事務所にパトカーが来たり机がひっくりかえったりするのは普通の景色でした。(その場合は、必ず謝罪、時に弁償を求めました) 大変と言えば大変ですが、私もまだまだ未熟でした。ここ数年は相手と呼吸を合わせることを覚え、相手の興奮やイライラを高じさせないようになっているような気がします。

道に迷っている人や外れてしまった人に対しては、アドバイスはさして効果がありません。「分かっているけどどうしようもない」という悩みですから。彼らにはむしろグッドニュースが必要です。「こだわり続けている感情と考えを手放して方向を転換すれば景色は全然美しい」というニュース。それを如何に伝えるかが私の役割です。その時が来るまで、その機会が来るまで、それを待っているのは私にとっても苦しい時間です。

私は、なだめたりはしないで「常識」は言い放ちますので、加害者と呼ばれる人とは喧嘩腰になることも多々あります。(短気な私は、仏の顔は出来ても本当に三度までです。) 道徳的であれとは決して言いません。しかし常識とは、いつでも、どこでも、誰に対しても通じる人間関係の掟のようなものです。どんなに腑に落ちなくても、法律と同じく人が呑みこななければならないものだと思っています。ここを緩くして関係に円満や安らぎがもたらされたとしても、それは一時的なモウケで、必ずツケが回ってきます。

常識や法律は守るべきだという説得が効かず、同じ行為を繰り返し逮捕されてしまう人もいます。逮捕や処罰は望ましいものではありませんが、被害を拡大させないためにも、また加害行為者の方向転換と回復のためにも必要なプロセスであるとしか言いようがありません。しかし、加害行為は止めたものの方向転換ができず私を恨んだ気持ちのままの人は少なからずいらっしゃると思います。 そういう方には、一人ひとり、我に帰ってほしいと思います。方向転換する願いを持ち続けてさえいれば、罪や苦悩というものから身と心を転じる機会は必ず来ると信じています。人から許されること、人を許すことは、起こりうる当然のことだと信じます。

しかし、「殺人」が起きてしまったら、今生で許し許されるという機会を得ることは至難だと感じます。社会や人に対する懺悔では済まない、神の前の懺悔が必要な性質の罪だと感じます。命はおそらく神のものなのです。だから、誰の命であっても、その命を殺してはならないと思います。

どうしようもないことが世の中にあるのは本当ですね。出生した環境、肉体のこと、そして相手の気持ちや反応。将棋のゲームと同じで相手のコマは動かせません。でも、自分のコマをちゃんと動かすことで相手に影響を与えることは出来ます。それを知らず知らずの内にやっている世界から目を覚まし、意識的でいられるようになったら回復の第一歩です。コマの動かし方が、上手くいかない、綺麗かどうか、すっきりしているかどうかは、その後の取り組み課題です。知らず知らずの「鵜呑み」や「投影」。それに気付くのがセラピーの最初の課題です。でも今回は、セラピーでなくても気付きは得られるということを改めて考えさせられました。

他者は我が鏡と言います。他人の反応が不思議な時が私にもあります。私といて、なんで怒っているのかなとか、悲しい顔をしているなとか。野良衛門さんが私を責め立てるのはなぜかなとか。ちゃんと説明してくれれば私の目も覚めるかもしれませんよ。そんな時は、バッドニュースは転じてグッドニュースになるかも。理解が得られるとか、誤解が解かれるというのは、お互いに目が覚めるってことだと思います。


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「天誅が下る」というコメントへの感想2 お詫び

未来さん、誠に申し訳ありませんでした。

「『天誅が下る』というコメントへの感想」にコメントをいただきまして、ハッとしました。私こそ「投影」の心理で、頂いたコメントに自分かってな推測を押し進めてしまいました。日々、このような言葉を発する方たちと向き合っている私の先入観に気が付きました。そして、反省しました。

気付かせていただきまして、ありがとうございました。

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「天誅が下る」というコメントへの感想

記事「長崎事件の警察対応3」に、未来さんからコメントを頂いたのですが、「天誅」という言葉があったのでご返事します。

「天誅」は、プログを読んでくださっている方たち、またコメントを下さっている方たちに不安を与える危険な言葉です。私はこの種の言葉に慣れているのですが、普通に生活されている人にとっては、日々の会話の中では聞きなれない言葉だと思います。(未来さんがそうだということではなく)ストーカー行為をする人のなかには、「殺す」というと脅迫罪に当たるため、「死ね」と言ったり、「天誅」という言葉を使う人がいます。殺す意思を表立たせず対象者を特定しなければ違法性がないと思っているのかもしれませんが、実際はそんなに単純ではありません。相手が誰か推量でき、その相手に恐怖心を与えることが可能であれば脅迫になります。)

ブログを読んでくださっている方たちのなかには、ストーカーの被害者もストーカー行為をしてしまった人もいらっしゃいます。今、まさにその渦中にある方たちもいらっしゃるでしょう。そういう方たちは、多かれ少なかれ心を痛めておられます。今後は、この種の言葉を取り上げるわけにはいきません。コメントで私を批判するのは自由ですが、ある一定の程度を超えた悪質性のある言葉を投げつけることは脅迫行為で、私のブログでは認めることはできません。

未来さんがどんな気持ちで「天誅」という言葉を私あてにコメントしてきたのか知りたいと思います。長崎事件の被害者たちのことを、人間の傷みが分からない人、犯人を平気で切り捨てたために天誅にあったのだとおっしゃっているのではないでしょう。もし万一、そうだと考えておられるなら、殺人はいけないという常識が通じない人だと私は判断し、以後、コメントは受け付けませんし頂いてもアップしません。ブログを読む方たちを巻き込んで苦しめてしまいますから。おそらく、私あるいは私の所に来られる相談者のことを「天誅が下る」言っておられるものと推量します。(まさか、ブログに全く関係のないこと、例えばアコギな商売とか詐欺とかで被害をこうむった相手のことを指してとおっしゃっているとは考えられません。) 

未来さんには、そういう言葉を使わざるをえないほどの思い、事情があるのではないでしょうか?(それが一般的、客観的に理解される事情どうかは別にして。) 未来さんの気持ちを忖度するのは余計なことかもしれませんが、私あてのコメントですので、未来さんの気持ちがもっと私に伝わるようにアドバイスをさせてもらいます。二行目に主語を作ってみたらどうでしょうか? 私なりに3つほど例を作ってみます。


所詮人は人の痛みは分からない。
「誰かある人を嫌う人は」、「嫌われる人の」痛みがわからないから、平気で切り捨てる。
弱者(「嫌われた人間」)はどんな仕打ちをされても泣き寝入りするしかない?
私はそうは思いたくない。
必ず天誅が下るはず。

嫌われるのは仕方がないとして、それが不当だと考える人の心情によくあるのは、
①自分を嫌いになったのは仕方がない、だけど、嫌いと正直に言ってくれなかった。誤魔化された。
②自分を嫌いになったのは仕方ないけれど、丁寧に別れ話をしてくれなかった。ちゃんと自分に謝ってほしかった。
③結婚(婚約)していたのに。

①と②とは私の相談室で大変多い訴えです。「ずっと好きだっていう約束を守らないのが悪い」、「自分が立ち直るまで誠意を見せてフォローすべき」、「自分と同じ痛みを味あわせたい」などが望みとなって続きます。相手は自分と一緒にいたくなくなっただけ、自分から離れただけなのに、「捨てた」と解釈します。

私は、人が去ってゆくのは呑みこむしかないとの考えです。ゲーテの言葉に「世界は粥で造られてはいない。堅いものは噛まねばならぬ。喉が詰まるか消化するか、二つに一つだ」があります。人間は弱いからこそ、強い覚悟が必要なのだと思います。治癒と成長に垣根はないのがゲシュタルトの考えです。人は成長しなければ癒されない、との考えです。成長は、しかし一人ではできません。大変な問題を前にしたとき、他者の支えが必要な場合があります。自分の弱さ、気持ち、罪深さなど、吐き出せる他者、受け止めてくれる他者が必要な時です。

③の場合、確かに嫌いになっただけでは人は離婚できない(近年は、3年間別居していれば結婚は破綻しているとみなされ離婚は可能になっています)し、婚約の不履行には慰謝料が請求できます。ですので、「天誅」とかストーカーとかの手段で異議申し立てをするのではなく、堂々と慰謝料を請求すること、訴訟を起こすことを望むべきだと私はアドバイスします。自爆してはなりません。


所詮人は人の痛みは分からない。
「誰かある人を認めない上司は、教師は、友人は、」「認められない人の」痛みがわからないから、平気で切り捨てる。
弱者(「認められない人間」)はどんな仕打ちをされても泣き寝入りするしかない?
私はそうは思いたくない。
必ず天誅が下るはず。・・・

数年前、私の母校の教師が教え子に殺された事件がありました。それは全くの逆恨みでした。また、私の知っている会社では、企業合併に伴う人事異動で不満を持った部下が上司を殺害しました。人間は相手に多くのことを期待します。それは人間がもともと孤独だからだと思います。他者評価に依存しながら生きているとも言えます。ですので、他者からの評価が低いときは、その理由について考える余裕すらなく絶望的な気持ちになったり、恨んだりします。そして、「不当に扱われている」という考えが芽生え、独走を始めます。


所詮、人は人の痛みはわからない。
「強者は、弱者は、」「弱者の」痛みがわからないから、平気で切り捨てる。
弱者はどんな仕打ちをされても泣き寝入りするしかない?
そうは思いたくない。
必ず天誅が下るはず。

「弱者」を記号とします。もし、自分から去るものが=強者と未来さんが決めているのであれば、主語は「強者」です。でも、自分から去る者=「弱者」 も、ありえると私は考えます。自分を「切り捨てた」のではなく、「逃げた」のかもしれないのです。心理学では「投影」という心理作用について語られます。人は、常に自分を他者に投影します。

自分が相手から離れることを「相手を捨てる」と考える人は、相手が自分から離れると「捨てられた」と解釈します。でも、本当の他者は、その人自身であり、自分ではない、のです。

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2012年3月23日 (金)
長崎事件の警察対応3 ストーカー規制法の問題点

今回のことで、私の立場として改めて感じたことは、「ストーカー規制法」自体の問題についてです。

ストーカー被害者が相談できる公的な機関は警察署だけです。「ストーカー規制法」は全てを警察の手にゆだねる法律です。このこと自体、問題ではないかと私は考えてきました。

DV防止法では「保護命令」は判所所が出します。ストーカー規制法の「警告」は警察署長が発します。「ストーカー規制法」は、“まだ犯罪が行われていないけれど・・・警告を発する”という法律ですが、本来、「行動の自由などの人権の制限」は裁判所の行うことです。それを警察と公安がするわけで、警告を受ける側には即時抗告の様な不服の申し立てができないことから、ひとつ間違えば人権問題となりえます。警察にはかなり過重な責務だと思いますし、警察が警告発令に対して慎重になりすぎたり、警察署によってばらつきが出たりするのも想像ができます。
実際、私のところの被害者たちが警察署に被害届や警告申し出書を出しにゆくとき、県警により、警察署により、ずいぶん異なる対応を受けて帰ってきます。

「ストーカー規制法」の適用と運用が警察署によってまちまちになるのは、ストーカーの定義にも問題があると考えます。条文には「連続性」と「反復性」が書かれていますが、読む人によっていかようにでも解釈されてしまうものです。

付け加えて言えぱ、DV防止法では警察以外にも配偶者暴力支援センターがあり(警察の4倍もの相談が寄せられている)、自治体による支援も、避難のための援助費用(横須賀市、国立市など)、自立資金援助(鳥取県、栃木県など)、公営住宅の優先入居(長野県、京都府など多数)、加害者に暴力防止セミナー(千葉県や大阪府)や民間シェルターなど用意されているのに比べて、ストーカー被害者への支援はありません。

「ストーカー規制法」を改正するとしたら、私が考えることは以下のことです。ざっと挙げてみます。

① 「警告」は「禁止命令」に変える。その発令主体を「裁判所」とする。

DVの保護命令同様、迅速な審理と裁判を行い、加害者に禁止事項を言い渡します。と同時に、申立人(被害者)の住居地を管轄する都道府県警察本部長に通知します。これによって警告が県をまたいだら失効するという現状の問題も解決できます。
不服のある当事者は即時抗告できる。その場合、禁止命令の効果は妨げないが、場合によっては効力停止を命じることもできるとし、厳正、公平な判断によって人権に配慮して命令を扱います。

② 条文から曖昧さをなくすこと。

ストーカー行為の定義から「連続して」とか「反復して」とかを削除する。この連続がばらつき解釈のもとになっています。ある県警では、「10分に1度メールがないと一日に100回メールがあっても付きまといではない」と言ったそうですし、連続を「日に100回が二カ月以上続かないとダメ」と言われた人もいました。改正したら、現条文にあるように生命、身体に暴力を加えられる不安(精神という言葉も加えてほしい)を感じさせる言動であればストーカー行為を禁止することとします。

③ 保護主体は、恋愛感情を根拠とする現法律から、つきまといやストーカー行為を受けたものとする。

男女間以外にもストーカー行為はありますし、警察署によっては、「離婚後のストーカー行為は、恋愛感情が冷めているので規制法にはあたらない」との解釈をしており問題です。

④ 罰則規定(13条の2項)、親告罪は削除する。

告訴をしなけれ逮捕できない現行法では、告訴がなかなかな受理してもらえな現状から被害者を守り切れない恐れがある。公安委員会からの禁止命令後は告訴なしでも逮捕ができるものの、禁止命令に至るまでに事件が起きる危険性を防げない。

これを機にストーカー被害者が考えなければならないこととして、「連帯」を上げたいと思います。DVの被害者たちには連携と連帯があります。彼女らの連帯がDV防止法改正の原動力でした。一方、ストーカーの被害者たちは、被害が終わってしまえば過去を忘れたい心理からか「問題縁」には関心がありません。そのためか、「ストーカー規制法」は発令以来、改正されないままです。国会議員でも関心のある方はすごく少ないと思います。これを機に、法改正についての議論を、学者、弁護士、議員、ジャーナリストと被害者が(過去の被害者も)始めてゆくべきではないかと考えます。

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長崎事件の警察対応2 問題点と責任を取らせること

昨日から、テレビと新聞で大きく報道されている「長崎県西海市の2女性殺害事件」に関する新たな事実。警察の「検証報告書」が出たのが3月5日。昨日は、これまで一切、触れられてこなかった事実が明らかになりました。

それは、習志野署(千葉県警)が傷害の被害届を「刑事課が一人も空いていない。一週間待ってほしい」との理由で受理しなかった二日後、担当刑事や捜査手順を決める係長らが署内のレクリエーションで二泊三日の北海道旅行をしていたというもの。(12月は犯罪が多いので警察は強化月間にしているはずなので私は不思議で仕方がありません。) このことを犯行直後から習志野署は把握していたにも関わらず、「検証報告書」では触れられていませんでした。被害届を受理しなかった理由は「他の事件を優先していた」からだと釈明していたのです。

そもそも、被害届を受理しなかったというのが決定的な過ちですが、実はストーカー事案や身内の暴力などで警察に被害届や告訴状を出しに行っても、なかなか受理してくれないのが実情です。私も過去、刑事たちに囲まれて「被害届を出したって何か解決するの?」などと説得を受けるという体験をしました。当会の相談者たちも、何度警察署に足を運んでも、結局被害届を受理してもらえなかったという経験を持つ人は例外ではありません。こういう場合、被害者は悩んだ挙句の最後の頼みの綱という期待を持って警察の門をくぐりますので、その対応の落差にショックを受けます。

昨日、片桐裕警察庁長官は「危機意識が欠如していたことの表れと言われてもやむを得ない」と述べましたが、被害届を受理しなかったことをはじめ、三県警の不作為と怠慢は甚だしく、加えて最後の打撃とも言える今回の旅行の事実は非常に悪質なものです。

この事件で警察は大きな過ちをいくつもしています。経過を以下に並べてみます。どんなに被害者家族が冷たくあしらわれていたかが分かります。

<2011年>

10月29日 
父親が「娘が暴力を受けている」ことを長崎県警(西海署)に相談。 この時点で、千葉(習志野署)、三重(桑名署)ともに事案を把握。

10月30日
習志野署が加害者に口頭で警告。娘は長崎の実家に避難。

11月 1日
西海署に「傷害の被害届を出したい」と相談。「事件が起きた場所の警察署へ」との返事。習志野署は加害者へ二度目の口頭警告。

11月 5日
西海署に「無言電話が続く」と相談。

11月 7日
父親と娘の同僚が娘のマンションに入ることに。

11月 8日
父親が習志野署に「部屋の侵入跡がある」と通報するも警察は対応せず。

11月13日
このころから加害者が「居場所を教えなければ周りの人間を殺して取り戻す」という脅迫メールを女性の同級生や同僚らに送信。

11月21日
西海署と習志野署に脅迫メールについて相談。両署とも「メールを受けた人の居住地に相談せよ」と対応せず。桑名署に脅迫メールを相談し、加害者の実家の巡回を依頼するが、「西海署と習志野署に確認する」と言ったきり巡回せず。

12月 6日
女性と父親が習志野署に告訴に出向くが、「刑事課が一人も空いていない。一週間待ってくれ」と受理されず。

12月 8日
加害者が桑名の実家を飛び出す

12月 9日
未明からマンションのチャイムが鳴り、ベランダでたたく音がする。父親が習志野署に通報するが、警察官は「顔を確認したか」「逮捕は出来ない」と言って帰る。その後、警察官は加害者がマンション前にいるところを見つけ職務質問。習志野署は加害者の父親を呼び出す。父親の電話の説得により加害者は出頭、3度目の口頭警告を受ける。習志野署は加害者の両親に「実家に連れて帰るように」と指示。

12月12日
加害者から娘に「被害届を出したら殺すぞ」という脅迫メール。

12月13日
加害者がマンション前をうろつく。父親が習志野署に通報するも、「まだ書類が整っていないので逮捕できない」との返事。

12月14日
加害者が三重の実家に帰るが、父親の顔を殴って自宅を出て行方不明となる。桑名署は長崎県警に連絡せず。加害者の父親は娘の父親と面会し、「注意してほしい」と伝え、「警察に息子を逮捕してほしい」と漏らす。
習志野署が被害届を受理。

12月16日
父親が習志野署に挨拶。その後、妻と電話で会話するが、既に祖母は殺害され加害者は外に潜んでいた。妻は電話を切ったのちに殺害される。

12月17日
長崎県警が加害者を逮捕。習志野署が傷害容疑で逮捕状を取る。

12月18日
千葉県警 「尊い命が奪われ誠に遺憾」とのコメント。

12月24日
長崎県警捜査幹部 「男女間で起きる暴力行為は、報復や近親者を犯罪者にしたくないという心理から被害者の同意を得て立件するのが難しい」と話す。

<2012年>

1月24日
父親が全経緯を明らかにする。

2月 1日
千葉県警刑事部杉田義弘参事官らが遺族を訪れて謝罪。

三県警の熱意も危機感もない対応には他県の警察からも多くの批判が出ています。県警、警察署、また警察官によってストーカーへの対応は様々です。身を粉にして被害者を助ける警察官も沢山います。しかし、往々にしてそういう人間の努力は事件を防ぐことに寄与し表面に出ません。警察組織においては、防犯よりも犯行後の捜査や逮捕、立件などへ高い評価が向けられがちです。今、どんなに多くの熱心な警察官たちが腹を立てているか想像に難くありません。

◆私が感じる三警察署の問題点を以下に書き出してみました。

① 最初の相談時に、習志野署は傷害事件として直ちに捜査し、逮捕すべきであったと思います。傷害罪は親告罪ではないので届け出が無くても本当は捜査しないとならないはずです。

② 習志野署刑事課の対応を署長がチェックしていたかどうか疑問です。被害者が生活安全課に相談に行っても事案は全署には把握されません。
今回のような被害届の不受理などという曖昧な対応を避けるためには、110番してしまうのが良かったと思います。一般的に、110番は119番と同様に緊急時とか現行犯でないとだめだという思い込みがあるようですが、そんなことはないのです。昨日のことでも、1週間前のことでも、1年前のことでも、10年前のことでも、110番してよいのです。110番すれば、必ず署長の知るところとなります。(のみならず県警本部まで把握することになります。110番は「また来てください,ね」というようなことで終わってしまう相談とは違って、「ではどこそこの警察の何課に相談しなさい」など必ず具体的なことを指示してくれ、相談のエンドがつきます) 習志野警察署長がこの事案を知っていたら、流石に今回のような事態にはならなかったのではないかと思います。

③ 習志野署が傷害事件としての対処を最後まで講じなかったのは大変な不作為ですが、少なくとも、ストーカー規制法違反にあたることを確認し、加害者に警告するなどの対応をすべきでした。ところが当初、習志野署は女性が執拗なメールをもらっていたことすら確認していなかったというのですから驚きです。ストーカー規制法違反に当たることを習志野署は見逃し、加害者になんら効力のない単なる注意である「口頭警告」ばかりしていました。口頭警告に法的効力はありません。

ストーカー規制法に基づく正式な「警告」とは、被害者からの『警告申し出書』を受け、警察署長が文書にて発する警告のことです。習志野署がストーカー事案として認識し警告を発してさえいれば、その後のメールやマンション周辺のうろつき、友人たちへの脅迫メールなどのつきまとい行為のうちどれ一つをもっても逮捕につなげることが出来ました。12月9日、13日は緊急逮捕(令状なしの逮捕)も出来たはずです。

また、熱心な警官ならば、脅迫を受けた娘の友人たちに被害届けを出すようアドバイスをしてくれたことでしょう。

※一般論ですが、被害者はよく警察に「相談」に行きます。「どうしたらよいでしょうか?」と「相談」すれば、「では様子を見ましょう」で終わります。警察に行くなら、「警告をしてください」あるいは「処罰して下さい」と「要望」をしっかり持って出かけることです。また、出した被害届や告訴は出来る限り取り下げないことです。苦労して調書を作っても簡単に取り下げられてしまうことが続けば、警察官もストーカー被害者の申し出に対して先入観が生まれ、心理的に後ろ向きになってしまいます。

④ 被害女性が長崎の実家に避難したのちは、三県警は密接に連絡を取りあい加害者の同行を厳しくチェックし、行方不明時には桑名署(三重県警)は直ちに西海署(長崎県警)に連絡を入れなくてはならなかったのにしませんでした。管轄権の問題は常に言われるところで、都府県をまたぐ事件は警察庁が指導することになっています。しかし今回は被害届が受理されていないので警察庁も知らなかったと思われます。

⑤ 三警察とも、訴えにきた被害者に対して、被害届や告訴を「居住地へ」、「被害地へ」と、たらいまわしのように指示していますが、そもそも被害届も告訴も、全国どこでも出してよいはずです。ここまで警察に扉を閉められていた被害者は本当に悔しかったと思います。ただ、そこで、警察以外の第三者機関にストーカー問題と警察対応について全てを相談できなかったものか、私は残念です。

⑥ 加害者がどんなに危険な精神状況にあるか、警察は決定的に認識不足でした。従来の犯罪動機とは異なる心理的動機を持っているのがストーカーです。被害者が遠方に避難したら安全だという考え、被害者の家族までは狙われないという考えは、捨てていただきたいと思います。そして、傷害事件まで起こしているストーカー加害者に対しては、何よりも身がらを一旦拘束することを第一目標として対応すべきと思います。

◆責任を取らせる

最後に、今回の事件のご遺族の方には、習志野署(千葉県)と西海署(長崎県)、桑名署(三重県)の法的責任を追及していただきたいと思います。「二度と同じことが起きないことを願う」ならば、その為に正式な責任を取らせることが肝心だと思います。具体的には三県(知事)に対して国家賠償法に基づく訴訟を提訴してほしいと思います。

国家賠償法では、公務員の不法行為が成立するには、当該公務員の「故意又は過失」が必要ですが、「過失」に関しては、「公務員が職務上要求される注意能力を欠くこと」と解されています。今回の習志野署の告訴の不受理、三県警の危険回避に関する不作為は違法だと思います。

警察の不作為が不法行為として判決を受けた例として思い出されるのは、桶川事件の国家賠償訴訟です。女子大生がストーカー被害を受けた末に刺殺されたのは県警が捜査を怠ったためだったして、遺族が国家賠償法に基づき同県に約1億1000万円の損害賠償を求めました。しかし判決は「被害者が名誉棄損の被害を受ける恐れが客観的に認められたのに警察が適正な捜査をするという期待を捜査を怠って侵害した」と述べ、計550万円の支払いを命じるものでした。裁判長は「県警の捜査と被害者殺害との因果関係はない」などとして、他の請求については退けたのです。原告側の控訴審も棄却され、なんとも解せないものでした。

訴訟の道は大変ですが、こんな悔しい、悲しい出来ごとを単なる過去としてしまわないよう、訴訟(あった場合)では最善の判断を裁判官に求めたいです。


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2012年3月21日 (水)
権威2 ミッキーはカリスマ

R子さんからメールをいただきました。とても印象的だったので皆さまに紹介したくなりました。(本人了解)

◆・・・・子供の時、ミッキーを先に見ていてそのあとで本物のネズミを知って 「!全然ちがうやん。」と思ったことを思い出しました。そんなで私もディズニーキャラクターになど全く興味がなく、中学の修学旅行で行って以来20年以上、ずっとディズニーランドに行ったことがありませんでした。

ところが今から3年半ほど前、ペアチケットをたまたま貰い、夫と行きました。そして数時間遊んでいるうちに、なんだか尋常ではないほど楽しい気持ちになってきて、あるアトラクションの行列に並んでいる最中に、楽しさのあまり涙が止まらなくなりました。夫おろおろ。帰りの電車に乗っても、涙が止まりません。

1年くらい経って、もういちどディズニーランドへ行きました。やはり楽しい。このときは偶然「パレード」を見ることができました。キャラクターたちが手を振ったり愛嬌を振りまいたりしてキラキラと目の前を通り過ぎていきます。「プーさんだ!」とか「ダンボきた!」とか、はしゃぐ40歳目前の私。そして、パレードの最後に現れたのは、ミッキーマウス。全く興味がなかったのに前回以上に涙が止まりません。「カリスマ」という言葉を初めて実感した日でした。

しかしプーさんやダンボやドナルドダックやバンビちゃんはみんなそれぞれ本物の動物の形をしてるのに、ミッキーだけは、なんであんなにちがうのか・・・。それがカリスマ感の秘密か・・・◆

※ R子さんは控えめな女性で喜怒哀楽を静かに表現する人です。そのR子さんに滂沱させたとは、ディスニーランド恐るべし。でも彼女、本当に幸せになったんだなあ。彼女と12年前に初めて出会った時は、一言でいえば幸せに見離されているという印象でした。かすかな笑顔も無理に顔に張り付けているように見えました。セラピーで子供時代に戻った時、「お母さん、笑ってよ」と泣いたけれど、マイケル・ジャクソンが死んだときには、『無償の愛は子供から親へと与えるもの』 というマイケルの言葉を私に教えてくれました。

最良の夫君と結ばれて、しっかり幸せになったんだね。彼と一緒に出かけたディズニーランドで、彼女は本当の「我に帰った」のだと思いました。たとえ親から愛されていないと感じてきたって、「我」に帰ってみることさえできれば誰かにちゃんと愛されていることに気付くのです。

それから、私はびっくりしました! ミッキーに会うためには、「ミッキーの家」に何時間も並ばないとならないのだそうです! 知りませんでした。 ディズニーランドに行けばミッキーはいたるところに出没していると思いこんでいたので本当にびっくりです。ミッキーは特別なキャラクターなんですね。ディズニーのキャラクターは全員ヒーローなのだと思いますが、ミッキーはヒーローの中のヒーロー、横綱、つまり「カリスマ」だった! R子さんの炯眼に感心しました。目からウロコが落ちました。

その彼女がカリスマの前で流した涙とは、実は最初の涙とは別物なのではないかと思います。カリスマという権威の前に立ったときの社会化された人間の心理反応なのでは? 侮れない・・・というか、おそるべし、です。 野球選手とかサッカー選手、ドナルドダッグやプーさんには人間としての対等感があるけれど、天皇とか横綱とかには超人的、圧倒的な存在を感じます。(ミッキーは超人ならぬ超動物だから形状もほかのヒーローたちとは一線を画しているのでは?) 

そんな人たちの前に立てば私もきっとドキドキしてしまうのだろうな。 ミッキーマウスを見たら、やっぱり私も泣くんだろうか・・・考えてしまいました。

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2012年3月 4日 (日)
鳩と熊

記事、「雀と鳩」で、私は「鳩は獰猛な感じがして苦手」と書きましたが、『鳩サブレー』という鎌倉のお菓子の鳩型は可愛いですねえ。確かに鳩だと分かるのですが印象は実物と全く別物になっていて大好きです。不思議だなあと思います。

熊も同じように獰猛な印象を受けるのですが、クマのぬいぐるみとなると、およそあらゆるぬいぐるみの中で圧倒的な可愛さを誇っていると思います。私は愛媛にいるピースのファンということもあり、白クマのぬいぐるみはいくつも所持しています。

ぬいぐるみを可愛く作ろうとしてもなかなか上手くいかない動物もいます。蛇やカラス、ネズミ(私にはミッキーも不気味です。)、カエル(ピョン吉も親指姫のカエルも、なんだか生意気で可愛らしくはありません)、意外にも犬もぬいぐるみは実物に勝ることはないように思われます。 

この違いはどこから来るのだろうかと考えることです。

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2012年3月 3日 (土)
雀と鳩

記事 「ご返事 いくつか・・・」 へのコメント、ありがとうございます。

「コメントや無言電話を『誰か?』と想像する事は,もちろんあなたの自由ですが,それを断定するのはどうかと思います。」 とのご意見をいただき、そうだなぁと思いました。私を宛先にしてくださってありがとう。

深夜の無言電話とか、知らないアドレスの人からのメールで誹られたり罵られたりすると、嫌われていること、憎まれていることへの恐怖と苦痛から、一人でいろいろ想像します。「もし、これがあの方の言葉だったら」と推測し、「カウンセリングを再開したほうが良いのでは」など、恐怖も徐々に相手への心配に変わってゆき、いよいよ 「あの方は私を必要にしているのではないか」という思いあがりが始まり、ついには「きっとそうだ」と断定的に思いこんでしまってゆく。こういう思い込みは良くないです。無言電話もメールも、その人はただ私を嫌っているだけ、憎んでいるだけ、それでよいのに、そのままにしておかないというのは私のエゴです。

最近、友人に教えられ、アルボムッレ・スマナサーラさんというスリランカのお坊さんのことを知りました。毎朝、「パーリー語 日常読誦経典」というCDを、起床と同時にかけて聴いています。パーリー語だから意味は全く分かりませんが、なんとも気持ちが落ち着くし、聴いているうちに世界とか世間とかに親しみがわいてくるので不思議です。( もともと私は世界も世間も苦しいです。) その最後部、日本語による「祈り」があるのですが、お坊さんは、自分、親しい人々、生きとし生きるものの「幸せ」を祈るだけではなく、

「私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いが叶えられますように
私の嫌いな人々に悟りの光が顕れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いが叶えられますように
私の嫌いな人々に悟りの光が顕れますように」

と、自分の嫌いな人、自分を嫌っている人のことも祈ります。

日々、これを聴いているうちに、「私が嫌いな人って、私を嫌っている人って誰だったっけ?」と、分からなくなってきました。「あっ、あの人だった」と思いだしても、好きな人と嫌いな人との境界線が消えている感覚になっていて驚きます。

ともあれ、コメントで何かを指摘されるというのはありがたいことだと、今回、改めて思いました。友達だってなかなかズバリの指摘はしてくれませんから。でも、私は記事 「ご返事 いくつか・・・」 では、コメントのことまで「どなたが下さっているか分かる」と書いたのではなかったのです。コメントに関しては、どなたが下さっているのか想像しません。(ニックネームを私に教えてくれている方は、もちろん分かります。) 例外的に、文面にある特徴的な言葉から、「あの方かなあ」と自然に思い起こされることはありますけれど、「分かる」という確信までは持ちません。コメントを送ってくださった方のことを想像しないでいられるのは、どんな批判も、誹りも、コメントであれば私は怖くないからだと思います。コメントは公開が原則なので、私一人が読んでいるのではないという安心感があります。読者の方たちも読んでくださっているという支えを得ているのです。私がプログはいいなあと思うのは、コメントには匿名性と共有性があって安心が確保されるからです。

どんなコメントでも頂ければ嬉しいけれど、特に、応援してくださってるコメントをいただいた日には本当にハッピーになります。雀を見ていても、いつもより可愛い。

・・・ちょっと馬鹿なことを言うようですが、私は雀を毎日観察しています。毎日公園に行くと彼らも私を友達のように出迎えてくれます。(と、勝手に思っています。) しかし、私の家のベランダに来るのは鳩とカラスばかりです。雀がくれば餌を上げるのにといつも残念に思います。私は意味もなく子供のころから雀が好きです。『舌切り雀』の話は、もうとびっきりに。大人になってからは、生きるか死ぬかの瀬戸際で、いつも「雀だって生きているのだから、私だって生きられる」という言葉で乗り越えました。ですので雀は私の同士なのです。

それに比べて、私は鳩は好きではないと感じてきました。鳩は獰猛な感じがして苦手です。(鳩好きの人には申し訳ありません。) その鳩が、有る時、夫婦でせっせと私のベランダに巣をつくり卵をうみました。巣に気付いた管理人が、「取りはらってください」と非情なことを言ってきました。マンションの人たちの迷惑になるからと。私は鳩が好きではないけれど、巣を壊すなんてことはできません。仕方が無いので、生まれたての卵を管理人の目が届かないところに移動させれば親鳩たちもそこに引っ越すのではないか、と目論みました。巣から卵をつまみあげ、外部から死角になっている隅っこにそっと移動しようとすると・・・なんと、私は手を滑らせて卵を落としてしまったのです! ああ、鳩よ、卵よ、申し訳ありません。私の目は、私の足元にペチャンコになってしまっている卵に釘付けになりました。頭からは血が引いていました。(それは、昔、息子のハムスターを公園に散歩に連れ出した時、足元にいたはずのハムスターが消え、探そうとした振り向きざまに踏んでしまったのと同じ感覚でした。ハムスターは「きゅっ」と一声あげて死んでしまいました。)

しばらく呆然としていましたが、私は自分の罪を消すかのように、忍び足で台所に行き、冷蔵庫の中の卵を取り出し、元の鳩の巣の中に、それをそっと置きました。そうして鳩たちが帰ってくるのを窓からじっと待ちました。息をひそめた私は罪人の目をしていたでしよう。ずいぶんたって鳩たちは戻ってきました。でも鳩は愚かではありません。鶏の卵はやはり異物にしか思えなかったのでしょう。なにせ大きさが違いすぎます。しばらくうろうろしていましたが飛び立ってしまいました。 

私は、その日からは鳩を嫌っていることを思わないようにしています。公園でも、鳩たちが干からびた水飲み場にたむろしている時は、率先して蛇口をあけてやります。

あの鳩たちが、今、幸せでありますように、と祈ります。

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2012年2月15日 (水)
「夜明け前のスキャット」

バレンタイン・デイも終わってしまいました。バレンタインの日、恋人たちは初めての夜を過ごす・・・なんてロマンティックでしょう。 羨ましい。でも、数時間後に別れの朝は必ず来ます。今朝も、二人して化粧室でバタバタし、通勤電車の待つ駅に向かって走ったなんて人は沢山いたのではないかしら。

この夜と朝の断絶は、とても嫌なもの。なのに、まあ当たり前のこととして受けいれねばならない我々です。少しも抵抗が無いというのなら感性が鈍磨しているのかもしれません。こんな朝こそ、グズグスを決め込んで会社を半休するくらいであってほしい、そんな恋をしてほしいなあと思うのは私が不良中年だからかな。

別れがたい朝という現実があって 『夜明けのスキャット』 なんですよねえ。私が子供のころ、既に大人になっていた由紀さおりが歌っていた『夜明けのスキャット』が、今、外国人に受けているとのことで不思議な気分です。

日本人にピッタリくる別れの風景とは、明け方みたいですねえ。『別れの朝』という歌もありましたし。『別れの昼』とか『別れの夕方』ってしっくりこないです。さて、『夜明けのスキャット』ですが、「星は消えない」とは夜が明けてしまわないぎりぎり、朝の来ないぎりぎりのところを歌っているように思われます。明け方には星が消えてゆく、朝になったらサヨナラなんだ、という嫌な気持ちの裏返しとして、時が止まってほしいという願望の歌だと思います。

そもそも、日本人ほど朝の訪れを重大視している民族はいないような気がします。夜と朝という二つの異質な時間を敏感に感じ取っているのです。最近、“夜明け前のひと時” “夜と朝のはざま” の時刻が、日本人にとっては当たり前の時間の推移ではなく、特別な時間帯なのだと書かれている本を読みました。

『火山列島の思想』(益田勝実著 1968年刊)の著者は、日本の神話、民話、私の故郷である愛知県北設楽郡のお祭りなどを例に引き、次のように言います。 「私たち日本人の脳裏では、実に長い間、闇の夜と太陽の輝く朝との間に、何か特別な、くっきりとした変わり目の一刻があった。異変が起きるのは、いつもその夜と朝のはざま、夜明け前のころでなければならなかった。」

例えば、『瘤取り爺さん』(宇治拾遺物語)の話では、夜明けより一時間ほど前の時間に小鳥たちがあちこちで啼き始め、それに気付いた鬼たちは爺さんの瘤を取り、おもむろに帰ってゆく。小鳥たちはいつの間にか静かになり、朝が来ている・・・。この時間の推移に伴う情景を、我々は何の疑問もなく自然に受け入れているとの指摘をしているのです。確かに私も、これまで「何故、夜明けなんだ?」と問うこともなく、夜明けの到来とともに帰ってゆく鬼たちの行動をナチュラルなものとして感じてきました。興味深いことです。

そして、鬼たちに時機の到来を示したのは小鳥たちであって、鶏がけたたましく告げたのではないという所にも、日本的な美というか詩的な感性を感じます。小鳥たちの声に反応する鬼たちの繊細さには、これまで気もつきませんでしたが、そういえば、『夜明けのスキャット』のルルル・・という擬音語も小鳥たちの声なのかもしれません。

また著者は、「この夜と朝の間のクレパスのような時刻には、どんなやりかけの仕事も時間切れとなって全ては停止するという約束事がある」 とも指摘しています。

各地にある、鬼が作ったと言われる九九段(もしくは九九九段)の石段伝説でも、問題は夜が明けたという点にあるとのこと。男鹿半島の伝説では、人間と賭けをした鬼は、あと一段というところで一番鶏が啼き、東雲の空が明るくなってしまったので姿を晦しました。時間切れで工事は未完に終わったというわけです。百段積んでいたら人間を毎月一人ずつ食べられるという賭けだったので、鬼はさぞかし残念だったことでしょう。

「夜明けの境界線での中断は再興が許されない。永遠の凝固が見舞う。時間はそこで立ち止まる」のだと著者は言います。 『夜明けのスキャット』は、「時計は止まる」ぎりぎりの時間帯(夜明け前の時刻)にずっといたいと願う歌です。だから、題名は『夜明け前のスキャット』が正しいように思えてきます。

思い起こせば、私は子供時代、山深い集落で暮らしていましたが、この夜明け前の“シーン”とした時が停止したような、不吉ささえ感じる世界を確かに意識し怯えていました。今は都会で生活していますが、夜明け前の急変とか事件に遭遇することは珍しくありません。夜通しの話し合いが決裂したり纏まったりするのもこの時刻。もう一度生きるかどうするかを決めるのも多くはこの時間帯です。

原始社会の日本人は繊細な心の持ち主だったのでしょう。彼らが時の推移に受けた心の衝撃、培った時間様式、夜明け前にクライマックスを持ってきた想像力、それらは今の私たちの心にも強力に生き続いて共有されているように思われます。当たり前すぎて気が付かない事は沢山あるのですが、これもその一つかもしれないです。

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